おじさん二人のスパイラルな会津自転車旅行
2026年10月18日
前半: 一日目と二日目:岩苗代から裏磐梯、喜多方に泊まって、翌日は会津若松観光
全ての円運動が進化を促進するわけではない。
円を描けば元の場所に戻る。
螺旋は、物事をさらに深い場所へと運んでいく。
ディープ・ブンデーラ (AI開発者、アーチスト)

予定は変更されるもの
私ことT太と輪友T村の2026年度自転車旅行は、福島県の磐梯山周辺と会津、さらに只見周辺を走ることになった。最初は能登半島へ行く予定で、宿も予約し、飛行機の切符も取ったが、今年9月能登は未曾有の豪雨に襲われ、道路が遮断され、自転車旅行はいささか難しい状況になってしまった。そこで、断腸の思いで能登半島は先に伸ばすことにした。
「じゃあ、どうしよう?」という話になって、私は「会津や磐梯山、さらに足を伸ばして、只見方面をやってみたらどうだろう?」と発案した。会津エリアには、大学時代に山登りに時々来ていたから土地勘があったし、磐梯山の勇姿を眺めながら走るのも愉快そうだった。それを聞いてT村も、「いいね、それ頂きましょう!」と二つ返事だった。
その詳細だが、一日目は上野から猪苗代まで列車、そこから裏磐梯を喜多方まで。二日日は喜多方の農道を走って会津若松まで降り、城下町見物。三日目は景観が有名な只見線でちゃっかり輪行して只見まで行き、そこから南会津まで山間を走る。四日目は田舎道を会津若松経由で猪苗代まで。最終日は、猪苗代湖畔を走り、郡山に降って自転車を畳むと言うもの。上野の前泊も含めると五泊六日(正味四泊五日)、走行距離は250キロ程だ。
今回の旅の特徴は、円を描いて元に戻るところだ。旅は、必ずしも直線ではない。また地図のような二次元の平板なものではない。私たちが描く円は、高い山を登ったり盆地に降りたりだから、円と言うより螺旋だ。その螺旋の中で、会津のディープな世界に巡り会える気がする。
猪苗代、裏磐梯、喜多方まで
上野のビジホ(高くなった!)に泊まり、朝6時発の東北新幹線に飛び乗って、郡山で磐越西線に乗り換えたT太とT村が猪苗代駅に着いたのは、まだ午前9時を少し回った頃だった。大学時代にワンダーフォーゲル部だった私は、年に二回は山小屋のあった磐梯山麓押立温泉を訪れていたが、40年前はもっとずっと時間がかかった記憶がある。現代は恐しく物ごとがスピードアップしたものだ。でも、ここから私たちは自転車だから、一気にスローダウンだ。
猪苗代駅前は、空き家だらけでかなりの寂れ感だ。背後には、昔と変わらず標高1816メートルの磐梯山がバーンとそびえ立っているから、その寂れ感が余計に悲しい。磐梯山に見守られてテキパキと自転車を組み立てた我々は、意気揚々と走り始めた、と書きたいところだが、ここで早速T村は、得意の「うっかり力」を発揮した。そのため一時間ほど猪苗代で足止めだ。

問題は、T村の愛車ラーレー号の後タイヤだった。迂闊にも、T村は整備を怠ったまま家を出てきたようだ。ラーレー号の後タイヤは耐用年数が過ぎているらしく、表面にボコボコしたコブができている。よくまあ、こんなタイヤで出かけてきたものだ。T村は、高価なシステムキッチンを売っている営業マンのくせに、こう言うポカをすることがある。
「このタイヤ大丈夫かな?走るとボコボコ振動するんだよ」とT村。
「大丈夫なわけないだろ! こんなタイヤで坂を下って破裂したら、転倒して死ぬぞ」と私。
そこで、猪苗代の何とかエイトとかいうホームセンターまで走る。猪苗代では自転車店は絶滅したようだったが(駅前に自転車屋の廃墟があった)、立派なホームセンターはあった。ホームセンターではこの頃何でも売っている。スポーツバイクのタイヤだって売っている。収穫した米を入れる袋が山積みになっていたのが、いかにも米所だ。我々は、そのホームセンターの店先に陣取ってタイヤを交換した。
T村は手慣れた手つきで手早くタイヤ交換をした。空気を入れる段になって、T村は自慢の携帯用ジェットボンベ式空気ポンプを誇らしげに取り出し、「これは一瞬で空気が入るんだ」と息巻いた。ところが、今度はそのポンプが壊れていた。愚かにも、その壊れたポンプで無理矢理空気を入れようとしたものだから、今度はタイヤチューブのバルブが壊れた。まるでドミノ倒しだ。仕方なくT村、私の手動ポンプで予備チューブに空気を入れた。T村は大汗をかいて、ようやくタイヤ交換を終えた。
私はその作業を冷静に観察していた。これは危機管理における「負のスパイラル」を教科書通りに描いたケースである。私は、それが目前で繰り広げられるのを驚嘆に近い気持ちで眺めた。もしT村がパイロットだったら、彼の操縦する飛行機は間違いなく墜落するだろう。
私は、科学者の冷静な目で眺めていたから、皮肉めいたことは一切言わずに、「いやあ、悪いことは重なって起きるんだねえ。こういうのマーフィーの法則って言うんだっけ?」と、優しい言葉をかけた。
T村とはもう何十回も自転車旅をしているが、彼は懲りることなし毎回似たような間違いを繰り返している。良く言えば、人に呆れられつつも見捨てられないナイスな性格なのかもしれない。いずれにせよ、この男はきっと何も学ばずに残りの人生を生きていくのだろう。
T村の自転車のタイヤは直ったが、今度は前後のタイヤが違う色になってしまった。人間なら左右別の靴を履いている感じだ。しかし、他人はそんなことに注意を払ったりしないから、我々は、今度こそ、意気揚々と裏磐梯を目指して走り始めた。

クマに出会う確率
さて、福島の山間部のような田舎では、クマに出会うことが大いに懸念される昨今の状況である。しかし、都市部にもクマは出没しているから、もはや山間部だけが危険ではないのかも知れない。裏磐梯の道は周囲が深い森だ。しかも猪苗代から裏磐梯へはダラダラ登りで、私たちはカタツムリのように遅く走っていく。この状況でクマデビューはしたくない。
その上、私もT村も、クマ対策は全く怠ってきた。T村はケータイに「クママップ」と言うアプリを入れてきたが、アプリではクマは追い払えない。このアプリを見てT村は、「福島県は、クマの遭遇件数が東北では少ない方だ」と疑わしいことを言う。私が思うに、福島のクマ頭数が少ないのではなく、福島の人口密度が低く、クマ遭遇の報告件数が少ないだけではないか。統計に騙されてはいけない。
そこで付け焼き刃だが、私はクマ対策に、猪苗代のコンビニで「オーガニックむき栗80グラム」を買った。もしクマが出てきたら、オーガニックむき栗を撒き散らし、クマが気を取られているうちに逃げるつもりだ。
坂を登りながら路肩を見ると、山栗のイガイガやドングリがたくさん落ちている。クマの大好物だ。その中に、動物の糞らしきものも落ちている。
「ねえ、これは何の糞かな?」と私。
「鹿じゃないの?」とT村。
「鹿のウンコは丸くてコロコロしているんだ。こんな大きいのはクマのウンコじゃないの?」と私。落ちているのはかなり大きく、タヌキやキツネのウンコでもない。きっとクマだ。
「えー、クマのウンコ?そりゃやばいぜ。早く逃げよう」とT村。
私たちは、登り坂というのにさらにスピードを上げて喜多方を目指した。後を走るT村が、苦しそうにゼイゼイあえぐ息音が聞こえるが、私は後も見ずにぐんぐん走る。T村が心臓麻痺を起こして倒れても、気が付かなかったと言えばそれで済む。そのまま秋元湖を通り過ぎ、やがて桧原湖が見えてきた。桧原湖の景観は素晴らしい。ひっそりとした湖が森に囲まれ、安達太良山系を背に広がっている。普段なら、停車して写真を撮るのだが、今日はワッセワッセと走っていく。早く、クマのウンコが落ちてないところで一息つきたい。

思ったよりもずっと早く五色沼のドライブインに着く。ほっと息をつき、喜多方ラーメンにありついた。ちなみに、猪苗代から五色沼までの獲得標高は350メートルだが、クマに追いかけられているという意識ゆえ、私たちはこの標高差を記録的な速度で登攀した。
やっと人心地がつき、五色沼を出ると、少し先が峠だった。そこからは喜多方までの20キロは下りだ。20キロの下り坂というのは、まるで20年分の定期預金を一気に引き出し、酒でも女でも博打でも何いいから宵越しの金は持たないぜ!とばかり一気に使ってしまう感覚だ。五色沼の標高は830メートル、喜多方は200メートルだから、標高差600メートルを一気にドーンと下る。これだから自転車旅はやめられない。
我々はまるで、坂道を転がる岩石のように、「会津が見渡せる丘」というところまで一息に下った。最高速度は60キロ以上出ていただろう。この速度なら、いくらクマでも追いつけまい。へえ、たった60キロ?ではない。自転車の60キロは、自動車で言うと180キロくらいの感覚だ。頭のヘルメットは風圧で後にぶっ飛び、鼻水や涙も垂れ流しになる。
私たちは絶叫しながら喜多方の町まで真っ逆さまに降りた。下りが終わると、道脇に停車して興奮を静める。陽は西に落ち、午後の斜光の中で田んぼが黄金色に輝いている。私は放心状態のような幸福感に包まれた。空を何百、何千というトンボが舞っている。生まれ変わったら、トンボになるのも悪くない。

豪壮な割には、コンセプトに欠けた旅館
喜多方では、隠れ家風の謎の旅館に泊まった。このS館、町外れの小高い丘の上にポツンとあって、立派な日本建築だ。古そうなのだが、聞けばまだ築30年だという。建物の周りには、城壁のような巨石の塀やら睡蓮が浮いた池などあって豪壮だ。ただ、あまり趣味が良くない。多分バブル時代に、金にあかせて建てたのだろう。
ここの売りは、「ざしきわらしの出る割烹旅館」ということだった。翌朝、給仕のおばさんが、「昨夜は、ざしきわらしが出ませんでしたか?え、見なかった?見える人には見えるんですけどねぇ」などとわざとらしく言うのが興醒めだ。建築にうるさいT村は、「けっ、何がざしきわらしだよ。建物がちょっと立派な割には、内部のデザインに哲学が見られないね。中途半端に金かけたってだめだ。この時代、ちゃんとしたコンセプトでプロデュースしないと旅館も立ち遅れる」と厳しい評価を下す。
中田観音のご開帳
さて、その旅館を出た途端、またT村がうっかり力を発揮した。今度はケータイを忘れてきたと騒ぐ。私は、「あなた待つのも松のうち」と鼻歌混じりで待つ。T村は青い顔で旅館に引き返したが、結果から言うならば、ケータイはズボンのポケットにずっと入っていたのだ。開いた口が閉まらなかったが、私は「ポケットに入っていたなんて、マジックだね!」と笑ってみせた。どうせこの経験からも何も学ばないのだから、何を言ったって同じだ。
私たちは、車が多い県道は避けて、会津若松まで裏道の農道を走っていく。こう言う道は静かで極楽だ。極楽と言えば、そのちょっと先に中田観音という寺があった。ここには、おびんずる様という、撫でれば体の痛みや病気が軽くなる像がある。抱きつき柱もあって、これに抱きつけば、不治の病にかかっても苦しまずにぽっくり逝けるらしい。私らは、おびんずる様を撫で、抱きつき柱に抱きついた。
見れば、寺の横に小さなプレハブの店があり、ソフトクリームやきんつば焼きを売っている。T村は、「俺、ソフトを食べようかな」と店に近づいたが、目的はソフトではなくて、店で働いている50歳くらいの女性のようだった。65歳の我々から見れば、50歳はまだ娘だ。
「あらお姉さん、ヤマブドウソフトってどんな味なのかな?」とT村、甘い声で話しかける。
「さっぱり系の味です!」とその女性、溌剌と答える。
「じゃあ、ヤマブドウソフトにしちゃおうっと。それでぇ、ここでソフトを売っているあなたは、もしかして中田観音?もうここで700年もソフトを売っていたりして?」とT村、いきなり飛ばしまくる。ああ始まった、と私は頭を抱える。
「よく、そう言われます。うふふふ」とその女性、ちょっと東北弁なのが可愛い。
「観音さまの作ってくれたソフトなら、長寿のご利益だね」とおべんちゃらを言いつつ、T村はベロベロと、いやらしくソフトを舐める。

おびんずる様に祈るT太
次に女性は、きんつば焼きを鉄板で焼き始めた。T村はしつこく続ける。
「やっぱぁ観音さまだから、触っただけでクリームきんつばと、アンコきんつばの違いがわかっちゃうわけ?」
女性は、いささか鬱陶しくなってきたのか、あっちへ行けとばかり、
「やんだ、触っただけではわがらないす。そんだ、今日は団体さんがお経をあげでもらってるがら、観音様もご開帳してるですよ。ほれ、お堂の中に金色のお像があるでっしょ?あれが観音様だがら見でおいで。観音様が拝めるチャンスなんか、そうないがらな」と言った。
そこで私らは退散し、ありがたく観音様を拝んでから会津若松の鶴ヶ城に向かった。
煮込みカツ丼かソースカツ丼かの選択に悩み、鶴ヶ城の美人剣士にうっとり
会津若松に着いたのは昼だった。我々は蕎麦を食べるつもりで、蕎麦屋も2軒ばかりチェックしておいたが、走っていたらソースカツ丼ののぼりが目に入った。すぐさまT村が「ねえ、蕎麦はやめてソースカツ丼にしない?」と言い出して、ソースカツ丼に変更になった。予定は、常に変更される。

我々はその10分後には、ソースカツ丼店で腰を下ろしていた。関係ないが、このカツ丼屋の前には、でっかいフィリピンパブがあって、美しい女性がたくさん写っているポスターが貼ってあった。ちょいと興味を惹かれたが、こういうところに入ると、すってんてんになって旅が続けられなくなる恐れがあるから、入ることは見合わせた。
カツ丼店に入ると、また予定が変わった。この店にはソースカツ丼だけでなくて「煮込みカツ丼」という新しいジャンルのカツ丼があったのだ。そこで、急遽ソースカツ丼はやめて、煮込みカツ丼にした。ところが食べてみると、煮込みカツ丼は東京あたりの普通のカツ丼とあまり変わらなかった。だから、やっぱりソースカツ丼にすれば良かったと思ったが、もう遅かった。でも、十分腹が減っていたので美味しくいただいた。

鼻の下が長い翁二人
カツ丼を食べてから鶴ヶ城に出向いた。鶴ヶ城には修学旅行や団体旅行の人たちがたくさんいた。その人混みの向こうに、ピカピカの鎧をまとった美しい外国人の女性が立っていた。観光客たち、特におじさんたちは、その美しい女性剣士と一緒に写真を撮ろうと、押し合いへし合いなのだった。T村は夢中で人混みをかき分けて前に出て、「あなたは鶴ヶ城の観光ガイドなのか?」と聞いた。すると美人は、少し訛りのある日本語で、「はい、私はガイドもやっているのですが、地域おこし協力隊のメンバーなーのでーす!」と言った。私もT村をそれを聞くと、花咲じじいのようなデレデレ翁になり、「ほほう、そーですか、そーですか、素晴らーしーい!」と、一緒に写真を撮らしてもらった。私は、そうしてもらいながら、もしT村が、何か不潔感のあることを言ったらどうしようとヒヤヒヤした。それこそ日本の恥だ。でも、さすがにT村も外交問題に発展するようなことは言わなかったので、私は心底ほっとしてその場を離れた。

鶴ヶ城に入ると中は博物館で、そこでは白虎隊とか会津藩が明治初期の戊辰戦争でいかに酷い目にあったか、と言うことが展示されていた。T村はK大学歴史学科卒だから、こういう場所に来ると嬉しすぎて逆上してしまうのだった。私だって白虎隊くらいは知っているが、T村は私を歴史音痴だと信じているので、いつものように彼の怒涛のレクチャーを聞きながらの見学になった。特に今回T村は、予習として『八重の桜』と言う会津が舞台のNHKドラマを見てその小説まで読んできているから、八重という女性については、全てを語らずにはいられないのだった。鶴ヶ城にいた一時間、100ギガバイトくらいのことをT村から聞いたので私は頭がオーバーロードして、逆に、ほとんどのことを忘れてしまった。

さざえ堂で螺旋の世界に迷い込む
次に、「さざえ堂」を見に行った。この建物は飯盛山旧正宗寺にあって、戊辰戦争の時に白虎隊が自害して果てた悲劇の舞台の近くにある。さざえ堂は1796年(寛政8年)に建てられた木造三階建てのお堂で、内部が二重の螺旋通路になっている。ここを登って降りることで西国三十三観音を拝めるようになっているのだ。さざえ堂はどこかギクシャクした作りで、登っていくとギシギシときしむ音がする。よく言えば手作り感があるこの木造建築は、中世の山寺の感じだ。この堂のコンセプトは、空に舞い上がる龍であり、この螺旋は二重ネジの構造と同じ複雑な作りになっていると建築家は説明する。
私たちはさざえ堂の、薄暗い千社札がたくさん貼ってある螺旋通路を登って降りたが、まるで異界を訪れてきたような気分だった。流行りの言葉で言うならば、ここはパワースポットに違いない。私らはほんの15分程度入っていただけだが、入る前の世界と出た後の世界が違っているように感じられた。まるでファンタジー文学に出てくるような奇妙な建物だ。

螺旋の不思議空間
さざえ堂を出た私たちは、今夜のホテルに向かう前に、近くの倉庫を改造した現代的なカフェでケーキとコーヒーをいただいた。会津若松は、古いものと新しいものが混在していて、それが良いブレンドになっている。この倉庫カフェは、会津の木工の作業所なども兼ねていたから、削りたての木材の匂いが清々しかった。このカフェで、T村はまた若い女性店員に話しかけたそうだったが、相手にされずに敗退した。詳細は、いつもと同じようなことなので、もう書かない。
(おじさん二人のスパイラルな会津自転車旅行は、後半に続きます!)




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