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オジサン二人の島根奥出雲サイクリング旅行5日目最終日

Updated: Aug 7


 小波浜から境港を経て、米子鬼太郎空港まで30km(そこから羽田へ)

(2025年8月5日執筆)

 

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小波浜の民宿なかよしで色紙を書いたT太

 

さて、出雲サイクリング5日目、最終日だ。その前に、昨晩小波浜の民宿なかよしの夜は、大変愉快だった。食堂には、近海の魚料理がテーブルから溢れんばかりに並んでいた。「こんなにたくさんの種類の魚を集めるのは大変だろうなぁ、悪いなぁ」と思いつつも、豪華な食事を準備してくれた民宿のおじさんとおばさんに感謝しておいしく食べた。

 

民宿なかよしには、もう一組年配のご夫婦が泊まっていた。岡山の美星町の農家のご夫婦だ。すぐに部屋のあっちとこっちで会話が始まる。T村は声が大きいから、どれだけ離れていても声が届く。

「こいつ(私、T太)と私は、中学の同級生で、その頃からいっしょに自転車で旅をしておるんですわ、ワハハ、ワハハ」。すると農家の奥さんが、「あら、あたしたちも中学生の同級生なのよ。中学一年のクラスで隣の席に座っていたのがこの人で、それ以来の付き合いよ」とご主人をつっつきながら笑う。「私たちは生まれた場所でずっと農業をやっているけど、中学のときの友達が一番良いわね。多感な時期に知り合って、いろいろ馬鹿なこともたくさんやって、うれしいことや楽しいことがたくさんあって、だから今だって話すことがたくさんあるもの。」私たちも同感だ。

 

このご夫婦が暮らす岡山の美星町は、全国でも1、2を争うくらい夜空の星がきれいだそうで、だから美星町というのだそうだ。土地も肥えているらしく、お二人は米以外にも、葡萄や椎茸栽培をしたり、現在はブルーベリーを育てていると言う。農家はとても忙しそうなのだが、このお二人の高齢の御母堂も健在で、その面倒も見ていると言う。

 

ご主人が言う。「だからと言ってうちにずっといるとつまらないから、ときには老人はショートステイの施設に泊めてもらって、二人で温泉巡りをするのが楽しみなんだよ。ハイエースのワゴンで道の駅で車内泊して、好きなものを買ってきて自分で煮炊きしながらね。でも、この2、3日は暑くて車じゃ寝られないから、民宿に泊まっているんだ。日本全国ずいぶん回ったけど、東京にはまだ行ってないから行ってみたいんだ。富士山も近くで眺めてみたいなあ。」

 

日本は高齢化して田舎は老人ばかりだと言われているが、このお二人はとても元気だ。年齢的には高齢者かもしれないが、体力年齢も、やっていることも若い。奥さんのお肌はつやつや、ご主人は日焼けしていて、ボディビルをやっているように体がビシッと締まっている。二人で仲良くあちこち旅しているなんてすばらしい。

 

とても楽しい夕食だったが、困ったことに、私は色紙を書くことになってしまった。黙っていればいいのにT村が、「こいつ(T太のこと)は、これでも作家で、子どもの本を書いているんですよ」と私の職業を宣伝したのだった。そしたら宿の女将さんが、「それなら色紙を書いてください」と言い出した。どうにか逃げようとしたのだが、岡山の農家のご夫婦がケータイでググって私の本を探し出し、「本当だ、本当の作家だ、作家なんか初めて会った」と騒ぎ出した。何が苦手って、色紙を書くことくらい苦手なことはないから、参ってしまった。

 

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大根島の溶岩洞窟

 

最終日の朝。T村とT太は、民宿なかよしを出発すると、宍道湖の東の中海に浮かぶ大根島に向かった。大根島は「おおねしま」ではなく、「だいこんじま」だ。立派な名前だ。大根島があるなら、キュウリ島とかニンジン島とかもありそうなものだと、子どもの本作家の私は考えてしまう。実は、こういうところに絵本のネタがあるのだ。

 

本当は大根島になんか行くはずではなかったのだが、昨日出会った松江ビジターセンターのおしゃべりガイドの女性に勧められて、急遽行くことになった。何でかと言うと、ここは大根島火山という火山によってできた島で、天然記念物の竜渓洞という溶岩洞窟があり、しかも中に入れるという。そこで地学オタクのT村のモチベーションが上がったという訳だ。T村と何度も旅して気がついたが、こいつは最終日には「やり残したことは全部やってから帰りたい」という欲張り気質がある。私は逆に、「もうやるだけやったんだし、早めに空港に着いてのんびりしよう」という気質だ。

 

そこで、私たちは鋭意その溶岩洞窟へ向かった。大根島へは、細長い県道338号線、別名「美保関八束松江線」を走って渡る。この道路は、まるでフロリダのキーウェストのように、水上に道路だけが浮き上がっている道だ。誰かがカッコよくインスタ写真を撮ってネットに載せれば、すぐに有名になりそうな雰囲気だが、今のところそういう兆しはあまりなく、ただ配送トラックとかの商用車が走っているのみだった。

 

大根島は、周囲10キロの平べったい島である。だからと言って馬鹿にしてはいけない。周囲10キロというのは案外広いのだ。そればかりか、驚いたことに大根島という名前のくせに、主なる特産はニンジンなのだそうだ。それじゃあ羊頭狗肉ではないか!と怒る人もあるかもしれないから書き加えておくが、「だいこん」という名前は、もともと奈良時代に「タコ」という名前だったのが、音変化をおこして「ダイコン」になったのだと言う。タコの由来は、誰かがトンビか何かがタコをくわえて空を飛んでいるのを見たからだそうだ。奈良時代の日本語は上代日本語と呼ばれ、今の日本語とは大分違ったらしいから「タコ」が「ダイコン」になっても不思議はないだろう。関係ないが、私の好物はおでんのタコと大根なので、この島には好印象を持ったことを記しておく。

 

溶岩洞窟
溶岩洞窟

我々はGoogleマップを頼りに竜渓洞にたどり着いた。平らな島の欠点は、見晴らしがきかないから、自分がどこにいるのか分からないという点だ。着いたものの、あにはからんや溶岩洞窟には柵があって入れないのだった。T村はいたく落胆していたが、急に思い立って来たりすると、こういうことになりやすい。T村は何十年もまっとうな営業マンとして生きてきたくせに、時々こういう衝動的な行為に走って失敗する。旅に出ると、人はいろいろな経験をして成長するものだが、T村にはなかなかその兆しがなく、こういう同じ過ちを繰り返している。

 

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水木しげる館に寄ったこと

 

次に私たちは、大根島から江島大橋を渡り、境港の水木しげる記念館へと向かった。ここが今回の最後の目的地だ。大根島と境港の間の江島大橋は、垂直に切り立ったような急勾配の橋だ。自転車でこういう背の高い橋を渡ったら、眺めが良くてさぞ気持ちが良いと、シロウト衆は考えるかもしれない。しかし、坂がきついし、歩道は狭いし、何十メートルも下の水面を見ると高くて気持ちが悪くなるし、私は正直橋を渡るのはあまり好きではない。

 

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水木しげる記念館の近くには、水木ロードと言われる道があって、『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪キャラクターの像があちこちに置かれている。ここは全くの観光地で、お上りさん達が妖怪像とセルフィーを写したりしながら、駅からぞろぞろ歩いている。私たちは、こうした人々の間を自転車で通り抜け、ささっと水木しげる記念館にたどり着いた。自転車というのはとても便利な乗り物だ。駅からの1、2キロはタクシーに乗るには近すぎるし、歩くにはやや遠い。それを見越して、水木ロードの両側には、優柔不断の観光客をからめ取ろうと、土産屋や食堂やカフェなどが軒を連ねている。自転車に乗った我々は、その間をバレリーナのように優雅に舞いながら通り抜けていく。

 

水木しげる記念館は有名だから詳しいことを書く必要もないが、少しだけ触れると、展示は『ゲゲゲの鬼太郎』はもちろんだが、水木しげる自身の生い立ち、そして戦争体験にも重点が置かれていた。だから、水木しげるの扱った生死や霊や妖怪というテーマの発端が、島根の風俗と戦争体験などにあったことがよく分かって興味深かった。『ゲゲゲの鬼太郎』は古い漫画だが、館内のスタッフが言うには、今でも島根や鳥取の子供達は『ゲゲゲの鬼太郎』が大好きで、妖怪のキャラについてとても詳しいのだそうだ。

 

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パンチパーマの親方と並んで食べた昼ごはん

 

水木しげる記念館を出ると、昼ごはんの時間だった。「最後にもう一度出雲そばを食べようか?」と私は提案するが、T村は、「いや、オレは定食か中華みたいな物が食べたい」と言う。そう言ってT村はGoogle検索をし、2キロほど先の定食屋Kの名を挙げ、「ここならば空港へ行く道筋にあるから、ゆっくり食べられる」と言う。そこで我々は、真上に昇った太陽に日干しにされながら、定食屋Kへと向かった。

 

Kへは思ったよりも長い道のりで、私は暑さと空腹と乾きで倒れそうだった。ようやく場末の寂れた場所にKを見つけたが、お世辞にもきれいとは言えない店構えだ。わざわざ鳥取まで来て入るような店ではなく、私一人だったら絶対に入らないだろう。でもT村は、「こういう店が案外うまいんだよ」と言う。

 

結果から言うなら、T村は間違っていなかった。営業マンの直感は鋭く、中はお客でいっぱいだった。私たちは「冷やしうどん定食」を食べた。「がっつり食べたければ、後悔しないすよ」と、ヤンキーのウェイトレスが勧めたのだ。果たしてこれは、冷やしうどんをおかずに、ご飯を食べると言う趣向のものであった。麺類をおかずにご飯と言うのは、労働者の食べ方である。しかし、Kの冷やしうどんには、冷やし豚シャブや野菜がたくさん載っていたから、ご飯を食べるにはさほど苦労しなかった。

 

見回すと、客は全て近くで働く勤労者たちだ。中古自動車屋の店員、修理工、工務店員、美容院の女性などと見受けられる。食べ物をケータイで撮影しているような、チャラい観光客はここにはいない。私たちの隣は、汗臭い男が二人座っていた。鳶職のような職人さんたちだ。昔だったらボンタンズボンに地下足袋だろうが、今はぴちっとしたスポーツウェアみたいなものを着ている。腕は筋肉でぱんぱんで、顔は真っ黒に日焼けしている。この二人は、テーブルに斜め座りで生ビールをぐびぐびっと飲み干すと、大盛りカツ丼をがつがつっと1分半で食べた。歳上の親方風の方は、今時珍しいパンチパーマである。パンチ頭というのは、最初は大仏のようなチリチリの短髪だが、しばらくして髪が伸びると昔のスティービーワンダーのような爆発ボサボサ頭にになる。となりの親方は、まさにそういうボサボサパンチ頭だった。昔はこういう頭が新宿のションベン横丁や池袋西口の養老の滝本店などにたくさんいたが、今ではほとんど見かけなくなった。境港は、まだまだソウルフルだ。

 

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出雲はJAL、米子はANAという住み分け

 

Kで冷やしうどん定食を食べた私たちだが、そこから米子鬼太郎空港は、ほんの15分ほどだった。鳥取の米子鬼太郎空港は ANAの拠点だ。一方、行きに使った島根の出雲縁結び空港はJALの拠点である。実は、そういう空港が日本にはいくつもあって、JALとANAがあまり仲良しでないことがよく分かる。出雲空港と米子空港は50キロも離れていない。飛行機ならばほんの5分か10分だ。気持は分かるが、そんな近くにふたつも空港があって無駄じゃないのか。

 

とにかく、我々はすぐさま自転車を畳んで袋に入れ、冷房の効いた空港に入ってチェックインを済ました。T村は会社勤めの営業マンだから、いつも同僚の若い女性社員向けにお土産をたくさん買う。今さらそんな努力は無駄じゃないかと思うが、でも逆に、その努力を怠っても、会社での扱いが悪くなるのかもしれない。おじさんは大変だ。

 

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一つの旅の終わりは、次の旅の始まり


それが済むと、我々は旅の終わりを祝うために、空港の喫茶店でコーヒーとケーキをいただく。旅の終わりはあっけない。人生の終わりも、もしかしたら同じようにあっけないのかもしれない。物事には必ず終わりがあるわけで、そこでジタバタしても仕方がない。



いつもT村と帰りの飛行機では、「次は、どこへいこうか?行きたい場所がたくさんあって迷うよなぁ」と話す。そういう時のT村の顔つきは、まるで中学生が夏休みの計画を話しているような無邪気さだ。私も、行きたい場所が多くて困ってしまう。

 

「自転車旅行の行き先は、どうやって決めるのですか?」と、時々尋ねられる。私はこう答える。「地図を広げて、そこに印刷されたくねくねした道や等高線や川やなんかを眺めながらどんな場所か想像する。そうしているうちに、バラバラだった場所が線でつながってくる。そうなってくると、私はその線を実際にたどって走ってみたくてたまらなくなる。そこへ行くんです。」

 

自転車の旅は、「線」の旅だ。観光地や歴史的な名所を訪ねる「点」の旅でもないし、どこかの国や県や地方を網羅するような「面」の旅でもない。スピードが遅い自転車ではそんなことはできない。でも、遅いからこそ良いことがたくさんある。旧街道や名もない峠道をひいこら走っていると、カーブを曲がるたびに新しい眺望が開ける。道端にお地蔵が並んでいたり、工事現場で旗振りをしているおじさんがいたり、寂れた村があったり、廃屋があったり、小さな神社があったりする。川岸をタヌキが歩いていたり、見たこともない蝶が田んぼの上を舞っていたりもする。それを見るためには、平均時速17キロの自転車のスピードがちょうどいい。

 

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米子を飛び上がったANA便は、あっという間に羽田に着いてしまった。あまり早かったので、次に行く場所を決められなかった。私たちの旅のペースは、半年に一回くらいなので、今年の暮れ頃には、T太とT村は、きっとまたどこかの田舎を走っているだろう。

 

(奥出雲サイクリング旅行の記、これで終わり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

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