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青山二郎と伊東の家のこと


 

2026年2月19日

 


「終戦の年の丸一年間は、運悪く、隣組長を押し附けられていた。伊東の川を渡るとじきに 玖須美、突き当たったところが竹町である。その崖の上に、生まれて初めて東京を離れて、七年も住み着いたのだから色々な事があった。」

青山二郎『鎌倉文士骨董綺譚』(講談社文芸文庫)から


 

今回は、伊東にほぼ三ヶ月滞在した。昨年2025年11月末の晩秋から今年2月初旬の冬の最中までだ。最後は雪に降り込まれて難儀した。

 

伊東とメルボルンの二拠点生活を始めてほぼ2年経ち、伊東での滞在日数は合計150日を超えた。つまり一年のうち三ヶ月近くを伊東の家で過ごしたことになる。これが多いか少ないかは分からないが、二拠点生活としては、まあ順当なところかもしれない。しかし、今回のように三ヶ月まとめて滞在するのは、やはりちょっと長い。一ヶ月半を2回とか、一ヶ月を3回とかにしたいが、飛行機代も高いのでなかなかままならない。そういうことが二拠点生活のネックだろう。

 

それにしても、これだけ伊東にいると、多くはないが、知り合いも自然とできる。この家を買った時の不動産屋の青年のHさんとは毎回会って食事をするし、隣のKさんとは犬の散歩にご一緒したり、近所の喫茶店に行ったりしている。安針通りからちょっと折れたところにある駄菓子屋Fさんご夫婦のところには散歩の時にちょっと顔を出すし、やはり安針通りのB書店にもしょっちゅう顔を出し、店主と立ち話をする。川奈や富戸にも、顔を覚えてもらったカフェなんかがある。その程度だが、知り合いがいるのは楽しいものだ。

 

安針通りはすっかりシャッター商店街だが、古い街並みの雰囲気がまだそっくり残っている。安針通りのどん詰まりをちょっと折れたところに五十段ばかりの古い石段があるのだが、その途中のひな壇に我が家がある。うちのすぐ隣はTさんというピアノの先生の家だが、Tさんには今回の滞在中に初めてお会いした。二年も経ってからお隣に初めて会うのも奇妙だが、何故かというと、Tさんは静岡西部のH市に引っ越していて、伊東の家には一ヶ月に一度くらい空気を入れ替えにくるだけなのだ。向こうも、私がいつも不在だから不思議に思っていたようだ。だから、12月の暮れも差し迫ったある晩、Tさんの家に電気がついているのを見て、私は挨拶に出向いたわけだ。

 

そのTさんだが、もうけっこうな高齢のようだが、若々しい、しゃきしゃきした女性で、しかも関西の国立大学で音楽の博士論文を書いていると言う。だから話も面白い。話していたら、その大学には共通の知人がいることも分かり、雪が降りそうな空模様なのに長いこと立ち話をしてしまった。

 

そればかりか、Tさんに会ったことで、伊東の私の家が、実はトンデモない家であることが判明したのだった。「トンデモない」というのは、良い意味でトンデモないのであって、悪い意味ではない。

 

「私たちの家が二軒建っているこのひな壇の敷地には、以前は古い日本家屋があって、そこには村田稲造という絵描きさんが住んでいらしたんです。この方は、魚の絵ばかり描いていて、襖に描いたその絵が何枚か我が家にはまだ残っているんですよ」とTさんは話した。そして翌朝、H市に帰る前にその村田画伯の画集を貸してくださった。

 

問題はその画集だった。その画集をぱらぱらめくってみると、なるほど伊東近辺でとれる魚の絵がユーモラスな筆致で描いてある。早稲田で学び、伊東高校の国語教諭になった村田画伯は文章も上手で、絵の間には随筆も載せている。その文章には、魚だけではなく、昔の伊東の人の往来なども書いてある。その中の一文に、私の目は釘付けになってしまった。

「この家は、かつて、戦後の混乱時代、大岡昇平や小林秀雄、林房雄などが集まってきた隠れ家であった。彼等は伊東の魚を食い、連日連夜、議論痛飲の限りを尽くしたという」(『魚藍堂自画讃』村田稲造)

 

この家にそんな歴史があると知った私は、びっくりしてしまった(私の家自体は、近年建て直されたもので、同じ家屋ではないのだが。)そして、すぐに私の頭はクエスチョンマークだらけになった。どうしてこの家に錚々たる作家たちが集まっていたのか?ここは旅館だったのか?あるいは誰かの別荘だったのか?それは一体何の集まりだったのか?

 

言うまでもなく、伊豆半島の温泉町である伊東や修善寺、湯河原、熱海などは、作家や文化人、政治家や実業家が昔からたくさん住んでいたり、訪れたりしていた場所だ。伊東にも、木下杢太郎、坂口安吾、尾崎士郎、種田山頭火、北里柴三郎、東郷平八郎、野間清治などの碑や家の跡が町の随所にある。だから、この家がそんな場所だったとて不思議はない。ついこの間も井伏鱒二の『珍品堂主人』を再読したばかりだったが、その舞台は伊東や下田で、文人や骨董商が骨董品や女性を巡って騙したり騙されたりしている様子が滑稽に描かれ、戦後の混乱期でありながら、一部の有産階級の人たちの能天気な生き様や、伊東や熱海などの温泉地の人間の往来の盛んだったことなどが分かる。

 

それでも伊東との関連で言うと、村田画伯の随筆にある大岡昇平、小林秀雄、林房雄という名前は、私には目新しかった。そこでググってみると、ものの10分で(とりあえずネット上にあることだが)ある程度のことが分かった。

 

その答えであるが、私の家があるところには、青山二郎という陶芸の目利きが、戦中から戦後にかけて住んでいたのだった。そこにいろいろな作家たちが足を運んでいたらしい。青山の住所は「伊東町玖須美竹之内」というから、それは現在の竹の台であり、すわなち我が家のある場所である。誰が撮ったのか、我が家の横の石段の写真も、とあるウエブサイトに載っていた。つまり、その青山二郎という人物も、この石段を登ったり降りたりしていたことになる。(後で、村田稲造さんのご子息にも会って、やはりここに青山二郎が住んでいたことは確認できた。)

 

その青山二郎が何者かと言うと、一言でいうのが難しい人のようである。陶芸の目利きであり、美術評論家であり、画家であり、装丁家でもあったらしい。そして、その眼力はひとかたならないものだったようだ。写真を見ると、なるほど、ぎょろりとした目の上に、広い額が広がった印象的な顔をしている。

 

告白するが、私はこの時まで青山二郎という名前を聞いたことがなかった。どこかの文章で目にしたことはあったかもしれないが、全く記憶がない。そこで次の二時間、私は昼ごはんを食べるのも忘れて、青山二郎についてネットで調べられるだけのことを調べた。

 

その結果、青山二郎というのが、非常なカリスマであり、天才的な陶芸や骨董の目利きであり、自由人であり、言うならば高等遊民と呼ばれる人種であった事が判明した。陶芸の美や真贋を見極める眼力は、透視能力とさえ言われたらしい。漱石の『こころ』に出てくる「先生」のような社会階級の人物であり、現在では絶滅種であろう。青山は、明治34年(1901年)に東京麻布の土地持ちの家に生まれ、戦前から戦後、さら昭和54年(1979年)に亡くなるまで、上記の小林秀雄、大岡昇平、林房雄はもとより、河上徹太郎、中原中也、佐佐木茂策、三好達治、今日出海、白州正子、宇野千代などに深い影響を与えた人物である事も分かった。特に、古美術の鑑定については、多くの作家や文化人たちが周囲を取り囲んで教わったらしく、その人の輪は「青山学院」と呼ばれていたという。朝鮮の焼き物に関する李朝ブームの仕掛け人であり、柳宗悦と民芸運動を始めた一人でもあり(途中で辞めたが)、装丁家としては、多くの流行作家の本を手がけた。今流で言うならば、アートディレクターと呼ばれる人種だろう。

 

後で私もその著書を何冊か入手したが、青山はずいぶんたくさん文章も書き残している。ほとんどは、陶芸や日本の伝統美術に関するものだが、対象はそれらにとどまらず、ピカソから映画、クラシック音楽、ジャズや草月流の生花に至るまであれこれ書いている。バーナード・リーチ、北大路魯山人、秦秀雄、梅原龍三郎、宇野千代、白洲正子などについての人物評も書いている。

 

伊東には青山は戦争中に疎開して、戦後もそのままとどまり、7年間を過ごした事がわかった。それは昭和17年(1942年)から昭和24年(1949年)までのことだった。その後も度々伊東を訪れ、晩年の昭和45年(1970年)には川奈に別荘を建て、毎夏を過ごしていたという。私も後で行ってみたが、そのコンクリート作りの別荘は相模湾が一望に見渡せる川奈の高台にまだ建っている。

 

青山は伊東にいた間キリスト教の本を500冊、レコードを2000枚も所持していたそうだ。そのレコードを巨大な蓄音機で聞いたりしていたから、戦争中はスパイと間違われたりしたらしい。水泳が好きで、伊東湾でぷかぷか浮かんで昼寝をしていて水死体と間違われたこともあった。ヨットで初島まで渡ったこともあるらしい。家には、安針通りの源泉から温泉も引いていたが、ある時この湯を引っ張ってくるポンプを盗まれて、それ以来和田大湯に入りにいっていたと青山の文章にある。私は、さっそく調べてみたが、確かに石段の脇からは、それらしい錆びついた古いパイプが地中から顔を出している。青山の家には、いろいろな人が絶えず出入りしていて、ある夏には120人も来客があったと言う。そんなだったから、竹町では怪しい人だと疑われ、それ故か戦時中には隣組の組長を押し付けられて閉口したとも書いている。

 

青山は生涯多くの人と親交を持ち、影響を与えた。例えば宇野千代は、青山と小林秀雄との行き来について一冊の本を書いている(『青山二郎の話 小林秀雄の話』中公文庫)。また現在でも良く知られているのは、青山と白州正子との関係のようだ。正子は戦後に活躍した政治家で実業家の白洲次郎の妻だが、むしろ能や茶道、陶芸などに詳しい随筆家として知られているだろう。その正子にとって青山は先生であった。陶芸を鑑賞する上での先生なのだが、正子の本を読んでいると、もっと広く芸術に対する姿勢や生き方を教わった先生と言う方が正しい。正子は、著書の中でそんな青山のことを「何者でもなかった青山二郎」と評しているが、それくらい青山のやったことは多岐に渡っていたということだ(『今なぜ青山二郎なのか』(白州正子、新潮文庫))。

 

ここまで書いたことは、後に私が、青山自身や白洲正子や宇野千代の著書を読んで知ったことばかりだ。とにかく、村田画伯の画集の文章を読み、青山二郎がここに住んでいたことを知った私は、翌日は伊東線と東海道線に飛び乗って、神田の書店街まで出かけて、手に入るだけの青山二郎の著書や青山に関する本を買い込んできた。アマゾンなんかに注文して届くのを待ってはいられない気持ちだった。

 

以来、読めば読むほど、私は青山二郎の世界に傾倒してしまっている。まるでティーンエージャーが、好きな作家の作品を全部読まないではいられなくなるのと同じだ。私も若い頃はいろいろな作家の本を手当たり次第夢中で読んだ記憶があるが、そうしているうちに、まるでその作家を知っているような気持ちになったこともある。そんな感覚も久しぶりに思い出した。

 

それでも私は陶芸のことや古典芸能のことはずぶの素人だから、青山二郎の書いていることの百分の一も分からない。その上青山の考えというのは、読んで知るだけではダメで、陶芸だったらそれをぴーんと指で弾いてみて、どんな音がするか聞かないと本物の理解じゃないと言うものだ。だから、本で読んだだけでは到底理解は覚束ない。本だけからの知識を青山は「読みたて卵」といって軽蔑している。

 

とにかく、青山二郎との「出会い」のせいで、私と伊東のつながりに新しい局面が開けたのは確かだ。Tさんに村田画伯の画集を貸していただいたことが象徴するように、それは人とのつながりから発したことで、私がただ家の中に座っていたら起き得なかったことだ。

 

青山二郎は伊東の過去の住民だが、まるで新しい知り合いのような気さえする。私は、新しく誰かと知り合いになると、時に、もっとその人のことを知りたくなる事がある。青山のように自由に生きて、それが故に何かの新しい境地を開いた人の生き方には、何か学ぶものがある。例えその人の生き方が、私のそれと大きく違っていてもだ。単なる偶然なだけかもしれないが、伊東のこの家で、青山二郎と私の人生が交差したことに不思議な強い作用を感じる。ちょうど、私の中にマイナスの磁石があって、青山二郎の人生にプラスの磁石があるような感じだ。

 

その作用が何なのかは、これから青山の著作を読んだりしながら考えようと思う。とにかく、そういうことに行き当たったことは、今回の伊東の滞在の一番の成果だった。

 

 

 

 
 
 

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