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サイクリストT村とT太の下北津軽二人旅 太宰治の津軽、縄文の遺跡、あちこちうろうろ

2023年10月22日から27日 


第二回: 二日目  どうにかこうにか金木までたどり着いたこと 


疑いながらためしに右へ曲がるのも、信じて断呼として左へ曲がるのも、その運命は同じことです。どっちにしたって、引き返すことは出来ないんだ。


太宰治『浦島さん』より



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1.突然のお知らせ

川内の温泉宿で朝湯に入って出てきたら、部屋でT村がケータイ握りしめて青ざめていた。


「たーいへん、やばい電話がきた」と、T村。声が少し震えている。

「誰か死んだの?」と、私ことT太。

「まさか、縁起でもない!そうじゃなくて、これから乗るはずのフェリーが欠航だっていう連絡だ!発電機の故障だってさ」とT村は大きな目玉をひんむいて言った。


フェリーが出なければ、我々は平舘海峡を渡って津軽半島に行けない。せっかく苦労して下北半島の突端まで来たというのに、なんてこった。

「どうしよう?」と、T村は聞くが、答えはひとつしかない。

「引き返すしかないでしょ」と私。


昨日は、飛行機が三沢空港に着くのが遅れて連絡バスに乗れず、青い森鉄道に乗り遅れた。そのせいで大湊線に乗るために35キロを全力疾走する羽目になった。その上、今日はフェリーが出ないなんて!


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しかし、旅行にハプニングはつきものだ。私たちは朝食を食べると、昨日と同じ20キロを粛々と戻った。自衛隊の基地の前を通り、例のエロビデオ屋の前も通過した。今度こそ中を見たかったが、青森方面上り大湊線は10時半発だから、そんな余裕はない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍びながら走り、大湊駅に10時に到着した。昨日と同じタクシーが二台、客待ちをしている。運転手さんの仕事の半分は待つことだ。昨日も今日も明日も、ひたすら待つ。人は人生のどれだけの時間を待つことに費やすのか。忍耐あっての人生だ。


私たちはささっと自転車を分解して袋に詰めこみ、またローソンのコーヒーを飲みながら、大湊線を待った。列車に乗ると、昨日と同じ風景を逆戻り。野辺地の駅ではちょうど昼だったから、またもや駅そばパクパクで食べた。

「また来ちゃったよ」とT村はそば屋のおばちゃんに話しかけたが、昨日とは別の人だった。とにかく、こうなると映画のフィルムを逆回ししているような感じだ。


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駅そばパクパク  ホタテも入った豪華版


でも野辺地からは青森行きの列車に乗ったから、フィルムの逆回しはここで終わりだ。青森に着くと駅北口で自転車を組み立て、すぐさま走り出した。今回の旅行では、こんなに何度も自転車を畳んだり組み立てたりするとは思っていなかった。

「いやあ、まいったよな、今日は。本当だったら津軽半島を北端から南下するはずだったのに、青森から北上することになるなんて、真逆だよ」とT村が走りながら話す。

「まあ、いいじゃないか。やっと津軽半島に着いたんだ、逆向きでも良いから、のんびり走ろうぜ」と私。


津軽半島の東側の海岸線をゆっくり走る。右側に陸奥湾がキラキラ光り、左側には低く津軽山地が横たわる。予定では16キロ北上し、奥内から左に折れて津軽山地を越えて金木に出る予定だ。青森から30キロほどの走行だ。津軽山地を越えるのはちょっと骨だが、峠越えの一つや二つしなければ、サイクリング旅行とは言えない。まだ時間はたっぷりある。私とT村は、気持ちを明るく持つことにして「サイクリング、リンリン!」と鼻歌まじりで海辺の県道を走った。



2.金木までの遠い道のり

ところが、嗚呼、何ということであろう!我々は、またもや天に見放されたのだった。マーフィーの法則というか、二度あることは三度あるというか、双六に例えるならば、我々はまた振り出しに戻ってしまった。


それはこういうことだ。我々は、奥内で県道2号へと左折し、金木方面に向かった。すると、すぐさま大きな電光掲示板が我々の前に立ちはだかったのだ。それには「金木方面10月31日まで通行止め」とあったのだ。



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我々前に立ちはだかった交通標識


それを見た私の口からは、思わず「やんぬるかな」と言う言葉がこぼれ出た。望みは尽きた、という意味だ。太宰治著『走れメロス』の中の有名なセリフで、走り疲れ、刑場につながれた友の命を助けることを諦めかけたメロスが発した言葉なのだ。


T村も標識の下で、「何じゃと?一体どうして?何でなの?俺たちが何をしたと言うんだ?」とか、絶叫している。そして、すぐさま携帯を取り出し、いったい何で交通止めなのか調べ始めた。すぐに、地崩れの復旧工事中だということが判明した。他に代替コースはないことも分かった。


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途方に暮れつつも記念撮影


「どうするよ?」と、今度こそ、私も途方に暮れた。

「うー、ちょっと待ってくれ、調べるから…」と、T村は真剣な表情で携帯をたたいた。私は、どこまでも続く田んぼを眺めて、ため息をついた。青森にまた戻るしかないことは明白だった。


しばらくして、T村が携帯を見ながら宣言した。

「とにかく、また青森に戻らなければ金木の宿までたどり着けない。でも、自転車で今日中に走れる距離じゃない。だから、青森に戻ってまた輪行し、奥羽本線と五能線と津軽鉄道を乗り継いで行かなければならない。」

私は正直、うんざりした。自転車を担いで田舎列車を三本も乗り換えなくてはならないのだ。「もう疲れたからゆっくり行こうよ。金木に着くのは夜中だっていいよ」と私は敗北宣言をした。そこでT村と私は、渋々青森までの16キロを戻ることにした。往復で32キロが無駄になったわけだ。時間は2時過ぎ、北国の午後の太陽は、早々と地平線に近づいてきている。


私は、最初のローソンで停車し、アイスクリームを買った。甘いものでも食べて、気持ちを落ち着けようと思ったのだ。ところがアイスをくわえて店から出てくると、T村がまた携帯を見ながらうわずった声で言うのだ。

「よく聞けよ、急げば3時35分発の奥羽本線に乗れるかもしれない。五能線と津軽線の乗り継ぎがうまくいけば、5時半には金木につけるんだ。夜中に着くよりマシだ。」

それを聞いた私は気が遠くなり、くわえていたチョコアイスを口から落としそうになった。


T村は言った。

「アイスなんか食っている場合じゃない、さあ、出発だ!」

T村は自転車に飛び乗ると、脱兎のごとく走りだした。私は、アイスをくわえたままT村を追いかけた。これでは、本当に走れメロス状態だ。文学青年の私の脳裏に、またもや『走れメロス』の一節が浮かんだ。


「さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨の中、矢のごとく走りでた。」

(太宰治『走れメロス』から)


T村と私は、矢のように県道280号を走った。またもや時間との戦いが始まったのだ。私たちは、いったい青森まで何をしにきたのだろう?のんびり津軽を走るはずじゃなかったのか?なのに、昨日も今日も、年甲斐もなく全力疾走をしている。


私たちは、暮れていく太陽を背に青森駅を目指した。歯を食いしばって16キロを45分で走ったから、時間内に青森駅に見事ゴールした。このペースなら、来年あたり「東京仙台ノンストップ300キロ耐久レース」に出られるかもしれない。


自転車を飛び降りると、急いで自転車を袋に詰め込んだ。ぐずぐずしていると列車に乗り遅れる。あんまり慌てたので私はパニックを起こした。頭の中が真っ白になり、自転車を袋に入れる方法が分からなくなった。私が痴呆状態になっているのを見て、すかさずT村が手を貸してくれ、とにかく5分で自転車を畳んだ。それから電光石火で切符を買い、階段を駆け上ってホームを全力疾走し、奥羽本線に飛び乗った。私は、列車に乗ると脱力して放心状態になり、へたり込んだまま津軽平野に沈んでいく太陽を眺めていた。岩木山の向こうに沈んでいく、大きな夕陽だった。


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夕闇の岩木山


私たちは川部でローカルな五能線に乗り替えた。五所川原で、もっとローカルな津軽鉄道に乗り替えた。津軽鉄道の車体には「走れメロス号」と書いてあったから、あまりの冗談のキツさに、私は笑いを堪えて腹が痛くなった。


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3.走れメロス号の中の恋と、宇宙人のいる昭和的民宿

「走れメロス」号には、帰宅する地元の高校生がたくさん乗っていた。隣席には恋仲らしい男女が、イチャイチャ手を繋いで座っている。その頃には、私たちもかなり正気に戻ったので、この二人の高校生がどんな仲で、ものごとがどこまで進行しているのか想像できるほどになっていた。私は、二人の仲はすでにBくらいだと考えた。T村は、「いやいや、まだまだAくらいだよ」と、慎重な線を出した。私たちが高校生の頃は、恋愛しても大概はAかB止まりで、Cまでいくのはほぼほぼあり得ないことなのだった。しかし、今の子どもたちは早熟だし、親も共働きが多くて監視の目が届かないから、こんな青森の僻地でも、あっという間にCまで進んでしまうのかもしれない。でも、こんなことを考えるなんて、私たちは、本当にいけないおじさんたちである。


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金木のにぎやか広場の夜景


列車は、5時半に金木についた。T村の熱意ゆえ、私たちは今ここにいられるのだ。外はもう真っ暗だ。駅前は「にぎやか広場」という名称だが、それはきっと青森特有の冗談なのだろう、駅前は深夜のゴビ砂漠のように人影がなかった。私たちは、6時には予約した民宿に着いた。玄関に出てきた親父は、すでに晩酌を始めていたみたいで、酔っぱらってフラフラである。その上津軽弁だから、まるで宇宙人と話しているように話が通じない。そのうち奥から女将さんが出てきて、ようやく宇宙人との通訳をしてくれた。


部屋に通されるが、この民宿は昭和時代から全く化粧直しも掃除もしていないようで、蜘蛛の巣だらけだった。トイレはかろうじて洋式だったが、それは和式便座の上に洋式便座を載せただけのもので、言わば和洋ハイブリッドなのだった。下手したら洋式が崩れ落ちそうで、私は恐々便座に座った。こういうトイレを初めて使ったが、珍しいものに出会うという意味において、やはり旅には出てみるものである。


それはともかくも、まずは風呂に入った。風呂も昭和的な凸凹のタイル張りだが、あちこち剥がれている。私の子ども時代の浴室もこんな感じだったが、それを50年間そのまま使い続けていたら、きっとこうなるだろうという風だ。シャンプーもリンスもあるにはあるが、出鱈目な汚いプラスチックのボトルに入っていたから、どれがどれだかわからない。私たちも、出鱈目にそれらを使った。夕食は、宿が汚い割には結構美味しかった。メインは昨日と同じような大きなエビフライだ。青森では、ご馳走といえばエビフライなのだろうか。これも昭和的な感覚だと言えるかもしれない。


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終わり良ければ全て良し、という二人


夕食を食べると、部屋に戻った。この部屋の床間には、水牛の角が飾られている。なぜここに水牛の角があるんだろう?という疑問も脳裏に浮かんだが、私の脳は、もはや活動を止めている。まだ8時ちょっとだったが、T村も80%くらい脳死状態だったので、もう寝ることにした。布団に入ると、そのまま電灯を消せるように、天井の蛍光灯から長い紐が下がっている。


バチンとその紐を引っ張ると、部屋は真っ暗になった。私の意識もほぼ同時に真っ暗になった。 


(青森旅行の第二回終わり。三回目に続く)



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