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サイクリストT村とT太の下北津軽二人旅 太宰治の津軽、縄文の遺跡、あちこちうろうろ

2023/12/24


2023年10月22日から27日 第5回: 




5日目、青森サイクリング最終日。青森、三内丸山古墳と青森県立美術館を見る




日本の中心から離れれば離れるほど、なぜか自分の故郷に近づいている気がする 


奈良美智(青森出身の現代美術家)




この世でいちばん遠い場所は 自分自身のこころである 


寺山修司(青森出身の歌人、劇作家




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1.青森港で


青森ビジネスホテルの朝食では、とろろが美味しかった。ビジネスホテルの朝食なんて味気なさそうだが、とろろが出てくるなんて青森は素晴らしいじゃないか。


さて、我々T村と私ことT太の、青森津軽サイクリング旅行も五日目の今日で終わりだ。T村は今日の夕方、青森空港から飛行機で羽田に戻る予定だ。楽しい旅行というのは、あっという間に終わる。今日の予定は、この旅の最後のハイライトである三内丸山遺跡と青森県立美術館の見学だ。青森市内だけの移動だから自転車には10キロほどしか乗らないが、最後の日にあわててたくさん走っても仕方がないから、これでよし。


ホテルを出るが、まだ三内丸山遺跡に行くにはちと早い。そこで、青森港へ向かってペダルを漕いだ。穏やかで風もなく、青森湾は鏡のように滑らかだ。見れば、釣り人がたくさんいる。私は、メルボルンでは釣り人なので血が騒ぐ。でも、いくらゆっくりのサイクリング旅行でも、釣りをしているほどの時間はない。そこで釣り人の肩越しに見学するだけだ。釣り人には、話しかけられるのを嬉しがる人と、逆にうるさがる人とふた通りある。私は、ちょっとくらい話しかけられるのは構わない。「何が釣れるんですか?」くらいは良いが、それ以上は釣りに集中できなくなるから迷惑だ。私も、「何が釣れるんですか?」と青森の釣り人に尋ねると、答えは「サワラの仔だよ」だった。


津軽湾の入り口は平舘海峡だが、その外はもう津軽海峡だ。その向こうは北海道である。T村は旅慣れているくせに案外方向音痴のところがあって、平舘海峡の突端にそびえる山を見て、「あれが北海道だな!」と感慨深げに言った。でも私が、「違うよ、あれはまだ津軽半島の突端だよ」と訂正すると、「え、うそ?あれは北海道だよ」と譲らない。だから、「北海道は津軽海峡からまだ40キロも先にあるんだから、ここから見えるわけがないだろ」と言ってやったら、「ああ、そうか!」とやっと納得した。


見れば、向こうから大きな客船がぐんぐん近づいていてくる。港の作業員も着岸の準備をしている。それはニッポン丸というクルーズ船であった。ニッポン丸は岸壁に近づくと、タグボートに押してもらって、大きな図体を横向きにピタッと岸壁に横付けた。うまいものだ。作業員の人たちは、まるで兵隊アリのように息を合わせて太いロープを引いたり、旅客の降りるタラップを動かしたりする。その様子を見ている人たちもたくさんいて、中に一人若い女性がいた。彼女は、三脚にビデオカメラを設置し、一部始終を撮影している。若い女性がこういうことをしているのは珍しい。普通は、小太りでメガネをかけた若い男が多い。でなければ、我々のようなおじさんだ。でも、客船にはロマンがあるから、若い女性が「客船着岸イベント」に惹きつけられることだってあるかもしれない。


T村は普通のおじさんであるから、もちろんこういう光景が大好きだ。しきりに「うわー」とか「ヒョエー」とか「驚いた!」とか歓声を上げながらビデオで撮影している。まるで8歳の男児だ。でも、私はそれを非難しているのではない。むしろ、62歳のおじさんが子どもの心を宿しているのは素晴らしいことだと思う。


ニッポン丸の着岸が終わってしまうと、なんだか港全体が気の抜けた雰囲気になった。そこで我々も三内丸山遺跡に向かうことにする。



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2.三内丸山遺跡で興奮する


青森港から三内丸山遺跡は7、8キロだ。あまり遠くはないのだが、途中にやけに急な坂があったりして、案外遠く感じた。ほんの30分ほど走っただけだが、着いたらホッとした。


世界遺産にも指定されたこの遺跡は、略して「サンマル」と呼ばれているらしい。では、どうしてサンマルが発見されたかというと、この場所にスポーツ競技場の造成をすることになって、「野球場なんか作っちゃう前に、形式的にですが、遺跡があるかないかの調査をしなくちゃいけないわけでして」とか行政の人なんかが言って、地面を掘ってみたわけだ。すると、出るわ、出るわ、埴輪とか壺とか装身具とかお墓とか貝殻とか、ごっちゃり色々なものが出てきたらしい。だから野球場は別のところに作ったとのことだ。とにかく、この発見は、考古学が分かる人(つまりK大学考古学科卒のT村さん)に言わせれば、エジプトのツタンカーメンのお墓級の発見なわけで、黄金仮面をかぶったミイラこそ出てこなかったものの、宝の宝庫であることには違いないわけだ。だから、T村としては、縄文遺跡の王様のようなサンマルに念願かなって来たもんだから、大興奮なのだ。


早速入場料を払い、中に入る。遺跡の敷地はスポーツ競技場を作ろうとしたくらいだから相当広い。野外の遺跡を歩きながらT村はもう興奮を隠せない(何せ8歳の男児だから)。「いやあ、来ましたよ、俺はついにサンマルに来てしまいましたぁ!血が騒ぐぜ、えいえいおう!」とか、大きな声で叫んでいる。私は、他人のふりをして数歩遅れて歩く。


T村は一人でしゃべっている。「俺もさあ、学生時代は実習で考古学の発掘とかやったわけよ。埃っぽいしさ、汚いしさ、泥だらけでツルハシとか振るってさぁ、あの頃は辛かったなあ。でも、やっぱり、大昔の土偶とかヤジリとか出てくるとさ、エキサイトしちゃうわけですよ、分かる?すごいことだよなあ!」と、まるで自分がサンマルを掘り当てたような口ぶりだ。私は、適当に「そうねえ、そうだよなあ、きっとそうなんだろうなあ、すごいなあ、発掘とか考古学って楽しいんだねえ!」とか、いい加減な相槌を打つ。


歩いていくと、有名な大型掘立柱建物が現れた。大きな火の見やぐらのような建造物で、4階建てのビルくらいある。もちろん、今ここにあるのは再現されたものだが、流石にすごい迫力だ。何でも、地中に直径2メートルの柱の残りが等間隔でつきささっていたところから、このような建物があったと考られたらしい。そういう穴を見ただけで、そんな建物があったと考える考古学者は素晴らしい想像力だ。でも、もしかしたら全然間違っているのかもしれない、と意地悪な私は考えたりもする。


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とにかく、T村はもうこの建物の下で、泣かんばかりに興奮している。「うわあ、こんな建物が六千年まえにあったとは、とても信じられん!これを人力で立てたんだよ、昔の人は!どえりゃあことだよ!ひゃあ」と、ケータイを振り回して写真を撮っている。


サンマルでは、その他にも、陶器や漆器などが廃棄されてできた「盛り土」、食べ物や貝殻、動物の骨や死体などが遺棄された「谷間」と呼ばれる低地、「竪穴住居跡」や墓を見ることができる。こういうものが全て紀元前3900年くらい前から紀元前2200年ごろまでの当時を彷彿させるような形で再現されていて、建物の中などにも入って見られるのだ。


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私は、その中でT村ほどではないにせよ、静かな感動に身を包まれていた。六千年も前から確かにこの地にはもう人がたくさんいて、気が遠くなるほど長い間ここで暮らしていた。文字で歴史が刻まれるようになる前に、ここに四千年近くも人が暮らしていたのだ。私は、その人たちの囁きや、ざわめきを聞こうとして、耳をすましてみる。


ところが、耳を澄ましていると、T村の声がうわずった聞こえてくる。「おー、すげー、見てくれよ、こんなところに、土器の割れたやつがザクザク埋まっているじゃないか!これは5千年もここに埋まったままだったんだぜ、すばらしー!」縄文時代の人たちは野外で暮らしていたから、きっとこんなふうに声が大きかっただろう。T村は、縄文人の遺伝子を色濃く持っているに違いない。


私たちは、ひとしきり外を歩くと、今度は屋内の展示場で様々な発掘物をみた。ここでも非常に興味をそそられた。例えば縫い針や釣り針である。こんな繊細なものを動物の骨から作る技術というのは本当にすごい。


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女性(男性も?)が体につけたと思しき装飾品もあった。この時代から人は美しく着飾ることが本性にあったことも分かる。再現された服も、シンプルながら大変美しいものだった。縄文の紋様がついた鍋や食器も実用一点張りなのではなく、見た目がとても美しい。何のためにあるのか判らない土偶のような人形も多数ある。子供のおもちゃだろうか、それとも宗教的な意味合いがあるものだろうか。


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「俺が、考古学をやったのはさあ、こういうものを見ると、昔の人がどんな暮らしをしていたか考えさせられてワクワクしてくるからなんだよ」とT村は言う。全く同感だ。私は、恥ずかしながら大学で言語学を勉強したが、私が知りたいのは、六千年前の祖先たちがどんな言葉を話し、どんな物語を語り、どんな詩や歌を作っていたかだ。ここにいると、何だか、そんな歌声が聞こえてくるような気がする。言語学では、昔の言語を再構築する分野もあるから、縄文時代の言葉について書かれた論文なども読んでみたいとふと思う。


私たちは、サンマル見学に至極満足したので、食堂で「縄文うどん」を食べ、デザートに「縄文クリ入りアイス」を食べた。縄文時代の人が食べたら何と言うだろう?


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3.青森県立美術館で奈良美智展をみて、美術館の前でT村とお別れする


最後は青森県立美術館訪問である。ここを見たら、本当に今回の旅が終わるのだ。県立美術館はサンマルから1キロ先だからとても便利だ。


青森県立美術館では奈良美智展をやっている。現代美術を知らない人のために書くが、奈良美智は青森県出身の「ならよしとも」という男性であり、「みち」という女性ではない。奈良さんの作品はとても有名だから、作者のことは知らなくとも、この人が描いた横長の目をした女の子の絵や「あおもり犬(けん)」という大きな白い犬を見たことがある人はたくさんいるだろう。ちなみに、日本国の公営放送も「しゅと犬くん」(首都圏?)というぬいぐるみの犬をテレビのニュース番組に登場させているが、こういう真似はダサいのでやめてもらいたい。


青森県立美術館も、かなりでっかい建物であった。でっかいだけでなく、真っ白で飾り気がない。美術館は飾り気がない方が私は好きである。その方が、展示物が生きる気がする。奈良美智展も素晴らしく良かった。サンマルとはまた違う良さだった。奈良さんは、私たちよりほんのちょっと年上だが、ほぼ同世代と言っても良い。同時代を生きてきた人間が作る美術には、理屈ではなくて、ビリビリ伝わってくるフィーリングがある。奈良さんの描く絵は、ユーモラスな中に少し影があって悲しげだ。そんなところにも私は反応してしまう。奈良さんは、高校時代に青森の田舎で同級生とロック喫茶を営業していたらしいが、その時に使っていたレコードのジャケットが壁一面に貼られていた。いろいろなレコードジャケットを見ていたら、私は不覚にも涙がこぼれてしまった。なぜだか分からないが、心にぐさっとくるものがあった。 音楽の記憶にはさまざまな感情がくっついているからかもしれない。


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私とT村は、最後に私たちの旅が成功裡に終わったことを祝うため、美術館のカフェでコーヒーを飲んだ。


「行ったり来たりの旅だったけど、楽しかったよなあ」とT村がしみじみ言う。本当に楽しかったと私も思う。私たちは還暦を過ぎているが、少なともまだあと十年くらいは自転車旅を続けたい。オーストラリアに三十年近く住んでいる私には、日本は遠くて懐かしい場所だ。できれば、その日本の、うんと遠いところにまた行きたい。寺山修司は、遠く離れたところにこそ自分の「心」があると言う。奈良美智も、中心から離れれば離れるほど「故郷」が近くなると言っている。こういう言葉は、旅に出て味わうと、じわっと意味が分かってくる。


4.旅の終わりは、次の旅の始まり


コーヒーを飲んで美術館の外に出た私たちは、握手をして右と左に分かれた。T村は自転車にまたがり、羽田へ戻るため青森空港へ向かった。友の姿がだんだん小さくなる。

私は、これから2キロ先の新青森駅に行き、自転車を畳んで五能線で五所川原まで輪行だ。実は、このあと私は一人で、秋田を北から南に走る旅を続ける予定だ。旅の終わりは、次の旅の始まりだ。その旅については、また後日書いてみたいと思っている。

T村と私の、青森サイクリング旅行に付き合ってくださった皆さん、どうもありがとうございました!また旅の途中で会いましょう。

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