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サイクリストT村とT太の下北津軽二人旅 太宰治の津軽、縄文の遺跡、あちこちうろうろ2023年10月22日から27日    

Updated: Feb 3

2023/12/13


第四回:4日目、弘前から青森まで


りんごの花びらが 風に散ったよなー

月夜に 月夜に そっと えーー

つがる娘は 泣いたとさ

辛い別れを泣いたとさ

リンゴの花びらが 風にちったよな

あーー

美空ひばり歌「リンゴ追分」から。小沢不二男作詞



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1.弘前城で地元民と歴史談義


今日の予定は、午前は弘前をぶらぶら走り、午後は少し寄り道をしつつ、我々最後の目的地青森まで走るのだ。


朝の弘前城は爽やかに晴れ渡り、T村と私はお濠端をゆっくり走る。お城のすぐ横に弘前工業高校があり、たくさんの学生さんたちが楽しげに自転車通学をしている。まるで『青い山脈』の世界だ(工業だから男子が多いけど)。こんなきれいなお城を毎日通って学校へ行くなんて、羨ましい。城下町には住んだことがないが、一度でいいから住んでみたい。

お濠端を走っていくと、堀の中に見事なハスがびっしりと植っているところがある。その横のベンチで、年配の夫婦が仲良くモーニングティーを飲んでいる。T村と私がハスを見ながら佇んでいると、ご主人が話しかけてきた。


「どちらからおいでかな?」と、いつもの質問だ。

「はい、横浜からです」とT村が答える。そうすると大概は、「え?横浜から走ってきたんですか?」という質問が続くのだが、T村もそこは承知で、「でも、三沢まで飛行機で来て、そこから下北半島と津軽半島を走って、明日また青森から飛行機で帰ります」と、先手を打って答えた。


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弘前城の門


それでも、年配ご夫婦は「ひゃー、お元気なこと!!」と驚いてみせた。営業マンT村はさらに会話を続ける。昨夜食べた郷土料理(イカ焼き、サバの一夜干し、しじみラーメン、りんごシャーベットなど)をベタ褒めし、津軽弁が全然分からないとか話し、さらに歴史の知識を生かして、津軽藩と南部藩の仲の悪いことなどを指摘したりした。ご年配夫婦は、T村の饒舌を満面の笑みを浮かべながら聞いている。ご主人も大変博識なようで、T村と丁々発止で津軽の歴史について議論している。どうやらこの人物、歴史か国語の先生だったのではないかと思える。


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レンガ倉庫美術館

ご主人は、しばしT村と話すと、「いやあ、貴方様も相当勉強されておりますなあ、感服いたしました!」と褒めるものだから、T村は相好を崩し、「不肖私、これでも大学は考古学科を出ておりまして、青森の歴史風土には、ひとかたならぬ興味を持っているのです。ハッハッハ!」と言った。


こんな具合に一日がスタートしたのだから、T村は上機嫌だ。その上、弘前にはT村が大好きな歴史的建造物がたくさんあって、建ちゃんT村はずっとニコニコで、弘前市役所、藤田記念庭園、旧弘前市立図書館、弘前レンガ倉庫美術館などを見た。


文学マニアの私も、弘前県立文学館を見させてもらったので知的好奇心が満足した。中でも私は、石坂洋次郎という青森の作家が、かつてはベストセラー作家だったくせに今は全然読まれていないと軽んじていたが、ここ青森では今でも尊敬されていると知り考えを改めた。けなしてないで、代表作の『陽のあたる坂道』くらいは読んでみようと反省した。

ひとしきり弘前を歩いたので、我々はモーニング・コーヒーをスターバックスで飲んだ。スタバも、歴史的建築である陸軍師団長宿舎の建物に入っているのだった。何から何まで弘前は結構な場所なのだ。



旧青森県立図書館
旧青森県立図書館


2. 黒石名物の汁焼きそばを食べたこと


このままずっと弘前でのんびりしていたい気分だったが、今日は最終目的地の青森入りしなくてはならない。だからと言って、弘前から青森は直線で40キロくらいだから、まっすぐ行くには近すぎる。そこで我々は、やや東の黒石方面へ寄り道し、そこから羽州街道を北上して青森へ行こうという計画である。


弘前から黒石までは15キロ強だから、1時間の道のりだ。途中に田舎館(いなかだて)と言う名前の村があったりしたが、その名前の通りの田舎だった。田んぼや畑の背後に八甲田の山がそびえ、その田舎の風景の中を縦横無尽に農道や県道が走り、案外交通量も多い。田舎には人影が少ないが交通量は多い。つまり田舎の人は、歩かないで車で移動する。逆に都会では、みんな電車に乗るから、駅の周りには人があふれている。それが日本の風景だ。

そんな田舎をちんたら走っていくと、少しずつ上り坂になってきた。ここ2、3日平野ばかり走ってきたから、足が怠け者になって「坂はいやだよー」と言っている気がするが、本当はそう思っているのは自分なのだった。


でも、すぐに黒石の街並みが見えてきてホッとした。黒石につくと、ちょうど昼だった。つまり、我々はお昼を食べるだけのために黒石に寄ったという構図だった。でも、たとえ昼を食べるだけだとしても、それは正しい寄り道と言えよう。大体、用事があってどこかへ寄ったら、それは寄り道とは言えない。ゆっくりのんびり旅行をすることの極意は、こういう無駄な時間の使い方をすることにある。


さて、黒石の中心部は、中町という古い街並みで、ここもまた歴史的建造物の嵐、「さあ、どうだ、こんなに古い建物がたくさんあるんだ、驚いただろう?」と言う感じだ。でも正直、弘前でも金木でも古い建物ばかり見てきたので、私はもう古い建造物を見てもあまり感動しなくなってきている。例えば、京都や奈良やバルセロナなどに長くいるとそういう感じになってくるのかもしれない。慣れてくると、東大寺やサグラダファミリア教会なんかを見ても、「ああ、そうね」と軽く受け流したりするようになる。


黒石中町の街並み
黒石中町の街並み


しかし、T村は建ちゃんであるからして、ここに至っても旺盛な興味で古い建造物の細部などを観察している。しかし、腹がぐうと鳴ったので、「ねえ、どっかでお昼を食べようよ」とT村に言った。


我々は黒石に昼飯を食べるために寄り道をした形だが、ここに美味しいものがあるかどうかまでは調べてこなかった。どこで昼飯を?と見渡すと、「黒石名物汁焼きそば」という看板が目に入る。汁焼きそばとは聞いたことがない。しかし、他に目ぼしいものも見当たらないので、「じゃあ、ここに入ってみましょうか」とその店に入った。


メニューを見ると、できますものは、汁焼きそばと普通の焼きそばしかない。私は、汁焼きそばは、ちょっと薄気味悪い気がしたので、普通の焼きそばを注文した。T村は、汁焼きそばを注文した。彼は、私よりずっと大胆な性格で、戸惑いとか、迷いというものがほとんどない。そのせいで、中学時代などは、あまり何でも食べるので何度か病気になりそうになったことがある。そのことについては、また別の機会に書こう。


さて、焼きそばを待つ間、黒石の焼きそばについてググってみた。焼きそばで有名な市町村というのは全国にいくつかあるが、その中でも最も名を馳せているのは富士宮市らしい。しかし、黒石の汁焼きそばは、人口比では富士宮をはるかに凌駕しているのだそうだ。黒石の人口3万に対し、汁焼きそばの店数は70軒。富士宮は人口13万で、焼きそば店は130軒。つまり、黒石は428人あたりに焼きそば屋が一軒、富士宮は1000人あたり一軒だ。確かに倍以上違う。


すぐに、T村の汁焼きそばと私の普通の焼きそばができてきた。黒石の焼きそばの特徴は、その麺がうどん並に太いと言うことらしい。私のも太麺を用いた焼きそばであった。太い焼きそばは、なかなか噛み応えがあったと言うのが私の感想だ。


T村の注文した汁焼きそばが、どんな焼きそばだったかというと、その太い焼きそばに、ソバつゆみたいな汁がかかっているのだった。その焼きそばを、T村はずるずると音を立てて食べた。私は人生で初めて、焼きそばをずるずる食べる人を目撃した。


私のお腹は、太い焼きそばでいっぱいになり、空腹はそれでおさまった。と言うか、黒石焼きそばは、ややお腹に重かった。だが、そのずっしり感は、黒石の人々が一生懸命富士宮に勝とうとしている心意気ともとれた。頑張れ、黒石焼きそば!


3. それでも早めに着いた青森


焼きそばで腹を作ったので、私たちは一路青森に向かった。私は、近頃昼ご飯を食べると眠くなって、自宅にいると昼寝をしたくなることが多いのだが、自転車をこぎながら昼寝はできないので我慢した。私たちは奥羽本線とほぼ平行に走っていくが、『青い山脈』のテーマソングが頭に浮かぶような青い空だ。


津軽平野の中心部は、ほぼ真っ平だが、青森の方へ北上していくと途中に鶴ヶ坂という峠がある。今回の旅ではほぼ唯一の峠だ。奥州街道を行くと大釈迦というあたりから、緩やかであるがれっきとした上りになってきた。T村と私は、幾らかの緊張感を持ってこの坂を登って行ったのだが、大して行かないうちに上りは終わってしまった。気負って試合におもむいたのに、相手が案外弱くてすぐに決着がついてしまったという感じだ。


峠からは旧道を下るが、かなり長距離のダラダラ下りで、私たちはほとんどペダルをこがずに、新城川に沿ったひなびた谷間を降りて行った。こうした谷間は全く無人なのではなく、ところどころに小さな集落があり、細々とした人々の生業が目に入る。道脇から湧き水がごぼごぼ沸いていたり、小さな温泉があったり、無人駅があったりして、旅の終わりにふさわしい風景がそこにある。


そんな旅情に浸っていたのだが、下りが終わって谷間を出た途端、普通の郊外になってしまった。そこはもう、どこの地方都市にもあるようなロードサイドビジネスがひしめいていて、靴の量販店や、薬局や、ファーストフォード、コンビニと、見慣れた看板が目に飛び込んでくる。そんな風景の中で、ああ、この青森旅行も終わりだなと思う。最後は、いつも少し白けた気分になるのだが、見慣れた風景は、その気分をさらに助長する。


だんだん太陽が傾いてきたが、まだ夕暮れと呼ぶには早い時間、我々はついに青森に到着した。思ったよりも早い到着だった。三日前にも列車でここを通過したが、それが随分前のことのような気がした。

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「どうする?ホテルに行くにはまだ早いよな」と私。「そうだなー、よし、ねぷた会館を見学しようよ」と、T村がすぐ横の巨大な建物を指差した。そこで、我々はその大きな建物に入った。ねぷたは、いろいろな人形の巨大な張りぼてであるが、8月のねぷた祭りでは、中に灯りを入れて輝かせて、それを山車に乗せて練り歩くのだ。でも私は、その張りぼてをただ見てもお祭りの熱狂ぶりは伝わってこないだろうと冷めた気持ちだった。ところが、どうして、どうして、灯りを灯した巨大なねぷたの迫力は相当なインパクトで迫ってくるものがあった。私は、生きている間に生のねぷたを見てみたいと思った。



巨大な 青森ねぷた会館
巨大な 青森ねぷた会館




5. ホテル受付のサイクリング乙女に、鼻の下を長くしたT村


外に出ると暗くなっていたので、我々はホテルに向かった。どこの街にもあるようなチェーンのビジネスホテルである。ところが、フロントで我々を待ち受けていたのは、一人の美しい乙女であった。二十歳そこそこ、サラサラの黒髪を肩にたらし、まるで若鮎のような青森美女だ。


そして、こともあろうに、この乙女の眼は、自転車ヘルメットをかぶった二人のおじさんを見てパッと輝いたのだ。若い乙女の瞳が、還暦おじさんを見て輝くことなどまずないから、私たちも驚いた。

その乙女はこう言った。


「お客さんたち、自転車旅行ですか?私も自転車大好きなんです!私、自転車競技部に入っていて、毎日ロードバイクで走っているんですよ!」

その瞬間、私の脳裏にこの乙女がピチッとしたウエアを着て、ロードバイクで疾走している姿が浮かんだ。横のT村も口を半分開き、鼻の下が一挙に1.5センチほど長くなっている。彼も同様の想像をしていることは間違いない。


T村は言った。「わほほほほ、そーなんですよ、三沢から飛行機で入って、下北と津軽を回って、今日は弘前からきて、明日また東京に帰るんです。わほほほほ」。


「きゃー、すてき―、一緒にいきたーい!」乙女は歓声を上げた。もし、一緒に来てくるなら、私はどんなことでもするだろう。 「お客さんたち、どんな自転車に乗っているんですか?私のはカーボンフレームのすっごーく軽いロードなんですー!」と、この乙女もかなり饒舌である。 


T村は、興奮で血圧が一挙に60mmHGくらい上がったのだろう、顔を赤黒くして答えた。


「うほほほほ、私のは渋〜い英国製のラーレーでして、相棒のはアメリカ製のフジです。うほほ、うほほほほ。」


その時、横にいた乙女の上司の男が、乙女と我々を怖い顔で睨みつけた。私たちの後には行列ができている。乙女も、上司の表情にハッとして、無駄話を止めて業務に戻った。我々は、まだこの乙女と話していたかったのだが、上司の男がキレるかもしれないので、チェックインを済ましてその場を離れた。


私たちは、その晩は、海鮮料理の店に入り、刺身五点盛り、イカの姿焼き、ホッケ焼き、白子天ぷら、つぶ貝、海鮮丼などを暴れ食いしたのだった。私は酒は飲まないが、T村は最後の晩なので青森の銘酒を飲み比べたりして、良い心持ちでホテルに戻った。見れば、フロントにまだあの自転車乙女がいるではないか。


少し酔っているT村は、「まだお仕事?今そこで海鮮料理を食べてきたんだけど、青森のお魚はやっぱ美味しかったよー」などと言いながら、フロントにふらふら近寄っていく。だが、その隣にはあの怖い上司がいる。乙女はただ冷ややかに、「そうですか、よかったですねー!」と、軽く返事しただけだった。


もちろん我々は、乙女の心変わりに心を痛めた。しかし、たとえ片時でも乙女の観心を買えたのだから、還暦おじさんの我々もまだそう捨てたものではないと、私はそう結論づけたのである。


明日の午前は三内丸山遺跡と青森県立美術館を見て、この旅を終える。午後にはT村は青森空港から帰京し、私は一人で五能線に乗って五所川原に戻り、そこから秋田に向かうのだ。


(青森自転車旅行四日目終わり。五日目の最終日に続く。)

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