三匹のおじさん、五島列島、長崎、天草を走る: T太、T村、ギャリさんのサイクリング旅行 (その5: 雲仙から天草まで、6日目と7日目)
- 鉄太 渡辺
- Dec 1, 2024
- 13 min read
2024/12/01
秋風やのらくらものの後ろ吹
小林一茶
誰かと一緒に旅をしているときは、朝食のコーヒーと一緒に、できるだけたくさんの忍耐も摂取するべきだ。
ヘレン・ヘイズ(アメリカの俳優)

長崎から雲仙口之津まで65キロを力走
朝8時半、私ことT太とギャリさん二人は長崎のホテルを出た。東京に帰るT村は夜明けと共に飛び出したから、もう姿はない。これから四泊、私ことT太とギャリさん二人は、雲仙、天草、熊本と走る。国際親善に貢献したT村はもういないから、泣いても笑っても、ギャリさんと私の二人連れだ。
それにしても、T村は声が大きくてオヤジギャグなども始終飛ばしていたから、いなくなってみると実に静かだ。それに、いないと不便でもある。彼は、何かと言うとすぐにケータイを持ち出し、パンパーンと打ち出の小槌のように必要な情報を取り出してくれたからだ。今朝からは、そういうことはみんな私がやらなくてはならない。日本語がわからないギャリさんは、ほぼ全く当てにならない。
その上、私もギャリさんもケータイ電話とはあまり仲がよろしくない。私は、普通程度には使うが、あまり細かい複雑なことは得意じゃない。ギャリさんに至っては、「ケータイを体につけていると、その部分が壊死する」と固く信じているので、いつもケータイはなるべく体から離れたところに置いている。だからギャリさんに電話しても、すぐには繋がらず、昼に電話をしても、返事が来るのは夕方か翌日だ。それじゃあ携帯電話にならないだろうと思うのだが、ケータイとはその程度の付き合いしかない。その上ギャリさんは、最近まで自分のケータイでインターネットができることを知らなかった。いつだったか私がGoogleで何かを調べたら、「そんなことがお前の電話ではできるのか?」と驚いていた。「あんたのでもできるよ」と教えてやると、さらにびっくりしていた。まあ、そんなだから、今後5日間はかなり努力が必要だ。

そこで私は、ケータイを自転車のハンドルにくくりつけて出発した。Googleマップのおかげで、長崎市内はするするっと抜け出した。市内を出ると登り坂だ。坂は、いくらGoogleでもどうにもならない。大した勾配ではないが、天気も良くて気温もぐんぐん上昇するから、汗をかきかき走る。3、4キロ上ったら今度は長い下りだから気持ち良い。降りたところのコンビニで、冷えたポカリスエットを一気飲みして生き返る。そこは日見と言う海岸の町で、そこから海岸線の道を、左に雲仙の噴煙を見ながら、右に橘湾の青い海を眺めながら65キロ走れば、今日の目的地の雲仙の南端の口之津に着く。
しかし、前回のブログにも書いた通り、これまでの四泊で我々の走行距離は100キロにも満たない。ところが今日は一挙に65キロ走るのだ。ギャリさんにしてみたら、そんなに長い距離を自転車で走るのは、ここ50年間で初めてだ。ギャリさんは、今から50年前にヨーロッパ旅行をした時、アイルランド、英国、フランス、オランダなどを自転車で走った経験がある。だから、「おれだって走れば走れるはずだ」という信念が体の奥にある。しかし、今や72歳。それに、ここは日本だし、坂が多いし、蒸し暑いし、いささか事情が違う。だから本日の彼は、いささか緊張した面持ちだった。

まあ、それでも日見の町から先は海岸沿いの気持ちの良い道、その上、国道に並行して田舎道もあるから実に快適だ。しばらく行くと小さな浮島を抱いた結の浜というところに出た。気温は三十度以上である。ギャリさんは、「暑くてたまんないから、ちょっと泳がせてもらうよ」と言うと、海水パンツに着替えてドボンと海に飛びこんでしまった。10月の半ばに海水浴もないだろうが、海岸があって、そこそこ泳げる気候ならば、オーストラリア人は一年中海で泳ぐ。冬のタスマニアの凍えるような海で泳いでいる人たちもたくさんいる。私には到底理解できない心理だが、それが「オーストラリアらしさ」と言うことらしい。ギャリさんも、いささかそう言う気質のある人だ。
そんなで30分ほど時間がつぶれたが、案ずることはなかった。雲仙の噴煙と、絵葉書のように綺麗な橘湾の全く言うこともないような景色を見ながら、うんせうんせと走り、午後4時には口之津についた。
夜の惨事
到着した口之津は、眠っているような静かな集落で、家はたくさんあるが、人気がない。私たちはタコ漁をやっている漁師夫婦が経営する民宿に泊まった。でも、「お泊まりは素泊まりでお願いしますね」と言われたので、タコは食べ損ねた。ギャリさんは「オレは、イカとかタコとか、噛みちぎれない食べ物は好きじゃないんだ」と言い、まったく不満はないようだった。私は、タコが好きなので、ちょっと残念だった。
そこで我々は、近所の真新しくて豪華な、それでいて他の客が一人もいない和食レストランで、寿司と天ぷらと揚げ出し豆腐を食べた。わざわざ雲仙で食べるメニューでもないが、ギャリさんが、「日本で寿司と天ぷらと揚げ出し豆腐を食べたら、とっても美味しかったよ」と他の人に言えるようにメニューを選んだのだ。もちろん、ギャリさんはとても喜んで食べたから、これでメルボルンに帰っても、大きな顔で自慢できるだろう。
惨事はその夜に起きた。私とギャリさんは、民宿でそれぞれ個室をもらえたので、私は、夕食後ゆっくりと「個人的な時間」を楽しんでいた。ギャリさんも、おそらくそうだろうと思っていた。
ところが、夜の8時半ごろドアをノックする音がした。
「T太、邪魔して悪いが、ちょっといいかな?」とギャリさんが言う。
「何?」
「実は、トイレが流れないんだ…」
ああ、ついに恐れていたことが起きた、と私は、少し動揺した。それでも、
「そんなことか。ちょっと待ってて」と平静を装って答えた。
日本のトイレは、昨今大変複雑である。押しボタンがたくさんついている。日本語が分からなければ、どれを押したら流れるのか、迷うことは必須だ。その上、🌀とか🎵とか意味の分からない印もたくさんついている。🌀は、蚊取り線香のマークだろうか?機種によっては、日本人の私でも、どのボタンを押せば流れるのか分からないことさえある。
勇気を出してトイレに行く。幸いトイレの蓋はしまっていたから、私は安堵の息を吐いた。「ギャリさん、『流す』のボタンはこれだよ」と言いながら、私は「大」と書いてあり、横に🌀の印があるボタンを指差した。ギャリさんは、そんなことは分かっているという表情で、「ちゃんと、それを押したんだけど、流れないんだよ」と言う。試しにボタンを押してみたが流れない。「あれ、おかしいな?」と、私はもう一度ボタンを押す。それでも流れない。「小」のボタンもダメだ。
「ああ、きっと電池がないんだよ!」と私は思いつく。実は、以前に我が家でも同じことが起きたことがあった。ウォッシュレット初期の時代にトイレが流れなくなり、大騒ぎになって出入りの工務店の親父さんを呼んだら何のことはない、リモコンボックスの電池がなくなっていただけだった。電池を交換したら問題はたちどころに解決した。
そこで私は、「トイレのウォッシュレットの電池がないんだよ」と、民宿のおばさんを携帯で呼び出した。おばさんはすぐに電池を持って登場した。ところが、電池を替えてもトイレは流れなかった。民宿のおばさんは慌てた。私も慌てた。ギャリさんも慌てた。
「主人が帰ったら、すぐ直させますからね。ちょっと待っててください」とおばさんは、すまなそうに言う。私たちも、そうあって欲しいと願う。
とりあえず、ギャリさんも私も、心を落ち着けるためにそれぞれの部屋に戻った。しばらくすると、玄関に民宿のご主人がやってきた気配がした。おじさんと奥さんが、何か言い争っている声が聞こえる。おじさんがトイレのドアをバタンと音をたてて中にはいった。壁越しに、おじさんが長崎弁で何かを叫んだのが聞こえた。おばさんが風呂場からバケツで水を運んでくる。それをおじさんがトイレに流している音がする。それが2、3回続く。どうやら電池だけの問題ではないらしい。私は、部屋でじっと息を潜めている。ギャリさんもじっと息を潜めている。部屋からは出られない。今出ていって、「どうですか?」などと声がけしても、何の助けにもならないだろう。
30分ほど、いろいろな物音がしていたが、とうとうそれが静かになった。そしてノックの音が。恐る恐るドアを開けると、宿のご主人だった。ご主人は、はちまきをしている。顔は真っ赤で、汗だくだ。今日は暑かったので、トイレの中はさぞ暑かっただろう。
「あのですねえ、どーにか、トイレは流れるようになりましたですわい。どうやら、コンセントのところのリセットボタンをどなたかが押したみたいですたい。それでリモコンの電波が通じなくなって流れなくなったみたいなんですわ。でも、もう大丈夫なんで、トイレ使ってくださいね。本当に申し訳なかったですねえ」と詫びる。詫びなくてはいけないのはこっちだ。それにしても、はちまきをして、赤い顔をしたご主人は、タコみたいだった。いつもタコ漁をしているから、だんだんタコに似てきてしまったんだろう。
タコご主人が去ったので、トイレを流してみる。ちゃんと流れた。どうして日本のトイレは、こんなに複雑なんだろう?ギャリさんのドアをノックし、ドア越しに「トイレ流れるようになったよ」と伝える。ギャリさんは、ドア越しに小さな声で、「それは良かった、本当に良かった。じゃあ、おやすみ」と言って寝てしまった。きっと、緊張が解けてホッとしたのだろう。

天草でイルカに乗ったサンタに出会ったこと
その後、その夜は嵐になった。大雨が降り、雷が鳴り響き、稲妻で何度も外が昼間のように明るくなった。タコおじさんの怒りが、嵐を呼んだのだ。
朝起きても、まだざあざあ降りだった。「ひでえ夜だったな、全然寝れなかったよ」と、ギャリさんは目が赤い。私もあまり寝られなかった。しかし我々は、朝一番で、天草へ渡るフェリーに乗らなければならない。素泊まりだから、朝ごはんも食べずに雨具を着てフェリー乗り場へ行った。フェリーは、すぐにやってきた。嵐だったわりに海は静かだった。天草の鬼池という小さな港に着くと、港には、イルカにそりを引かせたサンタの像があった。これを見て「ギャハハ、なんじゃこりゃあ!」と、ギャリさんは大喜びした。こういうナンセンスがオーストラリア人は大好きだ。オーストラリアにも、巨大なコアラとか、エビの銅像とか、同じようなくだらない像がたくさんある。

鬼池にいる間、太陽が出て良い天気になった。我々は、コンビニと雑貨屋の間くらいの店構えの小林商店に入り、最後に二つだけ残っていたサンドイッチを買って朝食とした。二人とも、すごくお腹が空いていたので、そのまま店内の椅子に座って食べようとしたら、店主のおじさんが「コロナの規制以来、店内での飲食は断っている」と主張する。「ならば、なぜそこに椅子があるのだ?」と、私たちはムッとして反論したが、おじさんはガンとして椅子に座らせてくれない。そこで私たちは港にとって返し、イルカとサンタさんの前でサンドイッチを食べた。今度はゴミを捨てようとしたが、どこにもゴミ箱がない。協議の結果、「小林商店に戻って、このゴミを引き取ってもらおうじゃないの」と話がまとまり、私たちは険しい表情で小林商店まで戻った。すると小林商店のおじさんは、今度は気持ちよく笑顔でゴミを引き取ってくれた。そればかりか、「気をつけて行ってらしてくださいね!」と優しい言葉までかけてくれた。ああ、きっとこの人は、思ったほど悪い人ではないのだ。ただ、いったん与えられた規則は、あくまで遵守する主義なのだ。まるで、グアムのジャングルに戦後28年間潜んでいた横井庄一軍曹のような人だ。
天草市で火事を見物する
それから私たちは、貴重な今日の行程である、天草市までの10キロを粛々と走った。旅は距離ではない。いかに道程を楽しむかが極意だ。そう私は信じている。しかし、鬼池から天草までの10キロはただのまっすぐな道で、面白味に欠ける道だった。その上1時間もかからなかったから、楽しむ間もあまりなかった。
天草に着くと、また雨がポツポツ降り出し、すぐに本降りになった。今日泊まるホテルには、まだ午前中でチェックインできない。しばらく道端で雨宿りしたが止む気配もない。そこで「とりあえず、お昼でも食べよう」と言うことになり、鉛筆のようにのっぽなビジネスホテルの7階にある「カジュアル」と言うカフェに駆けこんだ。
と、こう書くと、サクッとここまでカジュアルに物事が運んだように思うかもしれないが、全然そうではなくて、あちこちウロウロし、ずぶ濡れになり、どこの店も開いてなくて、情けなくて死にそうな気持ちになった挙句に、やっとこのビジホのカフェを見つけたのだった。とにかく、カジュアルカフェで私はハンバーグステーキ、ギャリさんはシーフードカレーにケーキセットを注文した。
ここはのっぽのビルだから、見晴らしだけはいい。見れば、今日泊まるホテルのあたりから白い煙が上がっている。その煙はみるみるうちにモクモクとした黒煙になり、すごい勢いで火が燃えている様相になった。「こりゃあ、えらい火事だわ。ホテルのあたりが燃えているぞ。ホテルが燃えちゃったら、今夜泊まるところがないなあ」と、私たちは昼ごはんを食べながら、呑気にそんな話をした。火事は、私たちが昼ごはんを食べている間にぼんぼん燃え上がり、デザートを食べてコーヒーを飲む頃には、収まってきた。「あんまりひどい火事じゃなかったみたいだね」と、ギャリさんは感想を述べた。こう言っちゃ不謹慎だが、火事は、雨に濡れて情けない気持ちだった私たちの気持ちをいくらか高揚させてくれた。
お昼を食べ終わり、「ちょっと早いけど、することもないから、ホテルに行ってみよう」という話になり、ホテルに行った。途中で、さっきの火事場を通りかかったが、もう火は消えているようで、消防の人たちが後片付けをしていた。私たちが泊まるホテルは、そこからだいぶ離れていて被害はなかったようだ。
しかし、ここで私は失敗をして間違ったホテルに行ってしまった。私たちが泊まるホテルは、花乃月とかいう名前だったが、そのすぐ裏に、花月と言う紛らわしい名前の別の宿があったのだ。私は、長いこと花月の受付で待たされた挙句、「あんたらの泊まる宿は花乃月だよ」と受付のおばさんに言われた。これは全く私の間違いだったのだが、おばさんの言い方もひどくつっけんどんだったので、私はまたムッとした。でも、今朝の小林商店の例があるので、このおばさんを悪人だとは決めつけないことにした。それに、花月と花乃月を間違える人が後を絶たなくて、おばさんもうんざりしているのだろう。だったら、どっちかのホテルが名前を変えればいいと思うのだが、そこには、そうできない事情があるのかもしれない。
さて、そんなことがあっても、花乃月ホテルに我々がチェックインしたのはまだ2時だった。こういう日は、なかなか時間が経たない。昔私は登山をしていたが、悪天候でテントに閉じ込められる日がたまにあった。こう言う日を山言葉で「停滞日」と呼ぶが、私たちは、知らない町で停滞し、何もできない状況にあるのだった。でも、逆に考えれば、これこそ旅における理想的な非日常の状況であるとも言えよう。人生において、これほど暇なこともあまりない。今こそ、街角の静かな喫茶店に入り、落ちてくる雨粒を数えながら、アンニュイな気持ちに浸ることもできる。古い友達に絵葉書を書いたりもできるだろう。何をするのも自由だ。しかし、ギャリさんと私と二人では、あまりアンニュイな気持ちにはなれないし、二人とも絵葉書を書きたい気分でもなかった。そこで私たちは、たまった洗濯をして、それから近くのミスタードーナッツへ行って、コーヒーをガブガブ飲んで、ドーナツを2つも3つも食べながら、「もし俺がトランプのように大統領になったら、何を禁止したいか?」などという、くだらない話をして時間をつぶしたのだった。

今日の走行距離はたった10キロで、私たちが長崎天草旅行に出て一週間も経つのに、積算走行距離は、まだ160キロくらいにしかならないのだった。それでも私のどこかには、これは大旅行だな、という意識が変わらずにあるのだった。現に、私とT村とギャリさんは、五島列島を走り、長崎を巡り、そして今天草にいるのだから。若くもないおじさんたちとしては、大威張りの快挙ではなかろうか。
(三匹のおじさん、五島列島、長崎、天草を走る: その6(たぶん最終回)に続く




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