三匹のおじさん、五島列島、長崎、天草を走る: T太、T村、ギャリさんのサイクリング旅行 (その4、長崎の街、5日目と4日目)
- 鉄太 渡辺
- Nov 10, 2024
- 12 min read
Updated: Feb 15
2024/11/15
遠くに行けば行くほど、真の自分に出会うことができる。
デービッド・ミッチェル(英国の作家)
港に停泊している船は安全だが、船というのは、そんなことのために作られているのではない。
ジョンA. シェッド(アメリカの作家)

福江島から長崎へ
五島の福江島から長崎までフェリーで3時間半と遠い。昨日とは打って変わって、真っ青な青い空、海の旅には最高だ。
フェリーの中では別段何も事件は起きなかった。私ことT太は、しばらくは遠くなっていく五島を眺めていたが、二等客室に戻ってのんびりすることにした。ここは座敷みたいになっていて、庶民たちが魚市場のマグロのように寝転がっている。私のすぐ横にも、ちょっと可愛い二人連れのアメリカ人らしき女の子たちが転がっていたのだが、何を思ったか、その一人が突然タンクトップ一枚になって腕立て伏せを始めた。退屈していた私の気持ちが通じたのかと唖然とする私を前に、彼女はいたって無邪気に上下運動をしている。2等客室で腕立て伏せは禁止という決まりもないが、私としてはじっと見物しているのも何だし(せっかくだけど)また甲板に出た。
航海中、ギャリさんは毛布をかぶってぐうぐう寝ていた。その横でT村は、iPadを取り出して何か調べものに熱中していた。船は長崎港に入る直前、女神橋という、大きくて綺麗な白い橋をくぐったが、その時はみんな甲板に出てきて写真を撮った。T村は、「長崎で降りたら、まずこの橋を渡りに行こう!」と興奮している。もちろん我々に異存もなく、「そうしよう、そうしよう」ということになった。とりあえず長崎観光の最初の目標が定まって良かった。

女神橋を横断し、小菅修船場で昔の長崎に想いを馳せる
長崎は坂の街だ。だから、女神橋に行くにも急坂を登らなければならない。坂に弱いギャリさんには苦行だ。私とT村は、「長崎なんだから、坂はしょうがねえよな」とか言いながら楽しく登った。長崎は坂が多いせいか道も狭く、車がビュンビュンすぐ脇を飛ばしていくのが危ない。
長崎は、坂だけでなくて造船の街でもある。以前ほどの活況はないかもしれないが、女神橋から眺めると湾内のかなりの部分を造船場が占めていることが分かる。長崎の街を眺めつつ、私たちは橋の向こう側まで渡った。すると今度は、せっかく登った坂をピューと降りなければならない。坂を自転車で下るのは気持ちがいいが、こうすぐに下ってしまうのももったいない。まるで定期預金を満期にならないうちに下ろしてしまうような感じだ。

女神橋を降りると、そこは小菅修船場という古い街並みだった。崖の上にも下にも、びっしりと張り付くように家が建っている。大工のギャリさんは、「こんな急なところに家を建てるには、かなりしっかりした土台を作っているはずだ」と感心していた。小菅修船場の町には、今でも船を作ったり直したりしているような工場がたくさんあり、金属のロープを作る会社とか、鉄工所とかがひしめき合っている。
私たちが自転車を止めて写真を撮っていると、バス停に座っていたおばちゃんが「そこの家は、船乗り相手の廓だったんだよ。ほら、表が格子戸になっているだろ。昔はあそこに女郎さんが、ずらっと並んでいたものだよ」と教えてくれた。すると私の頭脳は、VRゴーグルをはめたかのように、すぐさま女郎がずらっと並んでいる光景を想像し始めた。昔の女郎は、きっと桃色の襦袢なんかをチラつかせて船乗りを悩殺したに違いない。現代ならば、もっと露出度の高い格好なのだろうが、昔は襦袢くらいで簡単に悩殺できたに違いない。それにしても、私くらい想像力が豊かだと、古い廓の格子戸を見ただけで、その程度のことはいとも簡単に想像できてしまうので自分でも困ってしまう。

私が昔の廓の光景を想像している間にも、T村はそのおばちゃんから昔のことをいろいろ聞き取っている。さすがK大学歴史学科卒だ。一方ギャリさんは、日本語が分からないから、その横でただニコニコしながら立っている。私は、襦袢のことを想像していたから、T村とおばちゃんの会話は全くスルーだった。
T村とおばちゃんの質疑応答がようやく終わると、今度私たちは、長崎の市街地まで走行した。これでちょうど長崎湾を一周した形になったから、我々も少しはキロ数を稼ぐことができた。それでも四日目にして、積算走行距離はまだ100キロにも満たないだろう。
出島で歴史を考える
長崎といえば出島だ。我々はホテルにチェックインする前に、ちゃんとそういう歴史的な場所にも足を向けたが、今日は暑かったので、かなり疲れていた。座ってお茶でも飲みたいところだったが、出島にはそういう場所がなくて(工事中だった)、我々はラムネを買って、その辺りに座り込んで飲んだ。歴史オタクのT村は、出島に来たことでさらに長崎の歴史について語りたい欲求が高まり、ギャリさんに「ジャパーン、ロングタイムアゴー、ポルトガルピープルが長崎にゴーして、ブリング、メニーガン。ガンわかる?バンバン、バンバン!」とか説明している。しかし、ギャリさんは疲労困憊で脳が酸欠状態だから何を言われても「???」であった。そもそもギャリさんの知っている日本の歴史は、ハリウッド映画の『ラストサムライ』とか『キルビル』などから得た知識が主だから、鎖国だ、封建主義だ、平賀源内だとか言われても、あまりピンとこないだろう。

女性ばかりのカフェーで、メートルをあげたT村
我々は、ホテルにチェックインすると、かなり活力を盛り返した。なぜなら、そのホテルはT村の知り合いが重役を務めるかなり豪壮なKというホテルで、我々はそこに特別料金で泊まらせてもらったのだ。11階のロビーからは、シャンデリアの向こうに長崎の街と港が一望にできる。
私たちは、晩御飯を迷路のような小路を入った奥にあるこぢんまりとした居酒屋で食べた。その後、「ちょいとデザートでも食べようか」ということになって、表通りに出た。さすが長崎だけあって、若い人がたくさん闊歩している。その中でも、一際おしゃれなカフェをT村が見つけ、「ここがいいんじゃんないの?」と言う。ギャリさんも、「そうだそうだ、T村は英国紳士だから、ここが似合っているよ」とおだてるから、後先考えずに我々はそのシックなカフェに足を踏み入れた。

ところが、入ってみると、そこは、我々の予想を超えてさらにおしゃれな感じだった。居酒屋で、鯨ベーコンで酎ハイなんか飲んできたおじさんたちが入る雰囲気ではない。見れば、店内にいるのは、全員流行のドレスで着飾った女性たちばかりで、みんなチーズケーキやパフェなんかを食べている。でも、もう足を踏み入れちゃったから引き下がるわけにもいかない。黒いドレスに白いピラピラしたエプロンのウェイトレスが、「何人さまですか?」と尋ねると、T村はすかさず、「たくさんの若い女性の中に、おじさん三人!」などと耳を覆いたくなるようなオヤジギャグを飛ばした。T村は酒を飲むと顔が赤黒くなるのだが、そう言うギラギラした顔でこれを言ったのだから、私は穴があったら入りたい気分だった。その場でギャリさんにT村の発言を英訳して聞かせたら、彼も「オー、それは最悪のギャグだ」と呆れ顔だった。
それでも我々は、どうにか席に座らせてもらえた。見渡せば、このカフェには、建築関係のグラビア雑誌がたくさん置いてある。素敵な豪邸の写真がたくさん載っているような類の雑誌だ。T村は、それを見て赤黒い顔をさらにテラテラと輝かし、「お、ひょっとして、これは、これは…」とか言いながら、その中の2、3冊を壁の本棚から引っ張り出し、ページをパラパラめくりだした。そして、とあるページを指差し、店中に轟き渡るような声で、「おおお、これは俺が設計したキッチンだよ、見てくれ、見てくれ」と大騒ぎし始めた。
見れば、そのページには、とある青年実業家が沖縄かどこかに建てた豪壮な別荘の写真が載っていて、そのキッチンこそがT村が設計した作品だと言う。その証拠に、そのページの下には、小さな文字で、「設計、T村某」と彼の名前が書かれている。ギャリさんもその写真を見て、「素晴らしい、うん、本当に素晴らしいキッチンだ。ベリーナイス!」と暖かく喜んであげた。T村は有頂天で、その雑誌を抱えて踊りださんばかりだった。
これは後日談だが、翌日の晩もT村はこのカフェに行くと言って聞かず、我々は渋々同じカフェでデザートを食べる羽目になった。入店の時に昨夜と同じウェイトレスが登場すると、T村は、「たくさんの女性におじさん三人!」と同じギャグを飛ばして入店し、我々をさらに赤面させた。その上、二晩続けて同じ雑誌を持ち出して、我々はT村の設計したキッチの写真を再度賛称させられた。
原爆資料館の近くの小さなチャンポン屋で旅情を味わう
長崎二日目。午前中は、爆心地、原爆資料館、浦上天主堂、一本柱鳥居と、我々は長崎の長い歴史の中ではどうしても素通りできない場所を訪れた。ここを訪れるに理由は必要ではない。ただ、我々はその場に佇み、声を失い、こう言うことが繰り返されてはいけないことを悟ったのだった。
ゆっくり見学したので、気がつくともう昼だった。見れば、小さな油じみたチャンポン屋がそばにある。「こういうところは、きっと美味しいんだよ」と、我々は吸い寄せられるようにそこに入った。五人も入れば、いっぱいになるような店だ。「いらっしゃぁい!」と威勢よく言ったのは、茶髪の中年女性である。その母親と分かる年配のおばあちゃんもニコニコ迎え入れる。雰囲気のいい店だ。できますものは、皿うどんにチャンポンに中華系のものがメインだ。T村はチャンポン、私は皿うどん、ギャリさんはチャーハンを頼んだ。

そのチャーハンに、なぜかギャリさんは、とてもハマった。「こんな美味しいフライドライスは食べたことがない!」とギャリさんは絶賛した。私の皿うどんも絶品であった。T村も、ものも言わずにチャンポンをすすった。ギャリさんは、その店の庶民的な雰囲気も気に入ったようだった。ただのゴチャゴチャした店なのだが、我々が食べている間も、近所のヨタヨタしたじいさんが、持ち帰り用の皿うどんを作ってもらい、それをぶら下げてまたヨタヨタ帰って行く。その自然な感じが良い。こんなチャンポン屋は長崎にしかないだろう。昨晩T村がフィーバーしたオシャレなカフェとは大違いだ。T村は、「オレたちは、自転車で長崎を走りにきたんだ、五島にだって行ってきたんだぜ」と店の女性たちに自慢すると、おばあちゃんが「あたしゃ、ずっと長崎に住んでいるが、五島になんか一度も行ったことはねえよ、アッハッハ!」と呵呵大笑した。五島列島というのは同じ長崎県内でもよっぽど遠い場所なのだろう。東京だったら、伊豆七島みたいな感じだろうか。
グラバー邸の近くでまた英国カフェにも入った私たち
私は、長崎の児童書出版社の人に挨拶しなくてはならない用事があり、グラバー邸の近くのその出版社が経営する書店におもむいた。T村とギャリさんもついてきた。グラバー邸まで続くオランダ坂は、京都の清水寺の参道のようにお土産屋が並んでいて、アホな感じの国内外の観光客であふれている。グラバー邸を見るだけの時間はなかったが、お茶を飲むくらいの時間はあったので、その前の英国風カフェに入ることになった。まあ、グラバー邸の近くだから英国風カフェがあって不思議はないだろう。ギャリさんは、「T村は、よっぽどイギリスが好きなんだな!」と笑っている。ちなみにギャリさんのお父さんはスコットランド出身のリバプール育ちだから、ギャリさんは正統な英国の血筋なのだ。そんな彼から見れば、横浜育ちのT村が英国好きなのは解せない現象だろう。私だって解せない。

グラバー邸の前の英国風カフェをやっているのは年配のご夫婦だった。なんで英国風カフェかと尋ねると(もちろん聞いたのはT村)、その奥さんのお母さんがとても英国好きで、ウェッジウッドなどの器をたくさん集めていたからだそうだ。私たちも80年前のカップでありがたくコーヒーをいただき、その上特別に作ってくれたカステラにアイスクリームをはさんだお菓子をいただいた。ご主人も長崎の人であったが、この人もどこか英国風の香りを漂わせた紳士で、そのせいかすぐにT村と意気投合し、長崎の古地図などを持ち出してきた。まさに「好敵手現わる」というわけで、すぐに歴史談義が始まった。「長崎というのは、坂の街と言われていますけどね、実は、すぐそこまで昔は海だったんですよ。だから、家はみんな山の斜面に建ててあるわけです。土地が足りないから海岸に木の杭を打ち込んで、岩を転がしてきて陸地を作って、それが今の長崎の駅のあたりの埋立地です」と詳しい話をする。私は、そろそろ出版社の人に会いに行かなくちゃいけないし、気もそぞろなのだが、T村はますます腰を据えて、喫茶店のご主人のレクチャーに聞きいる。「ふん、ふん、そーですか、そーですか。いやあ、それは知らなかった、いやあ驚いた、素晴らしい話ですねー!」と、二人の話はキリがない。もちろん、日本語が分からないギャリさんはニコニコしながら座っているわけだが、どれだけ気苦労なことであろうか。
串揚げ屋で満腹し、T村に別れを告げた夜
さて、その晩は、私たちがT村と一緒に過ごす最後の晩なのだった。T村は明日の午後の便で東京に帰る。だから我々は、長崎で一番高級と言われる(T村がそう言った)串揚げ屋に繰り出し、お腹がはち切れるくらい食べた。そこはおまかせの串揚げ屋さんで、マスターが順番に20種類の串揚げを出してくれるシステムなのだ。二十本食べてしまうと、また振り出しに戻るという双六のような串揚げ屋だ。ところが、とても二十本も食べられず、我々は十数本のところで「上がり」になってしまった。(そして、上にも書いたが、昨日のおしゃれなカフェを再訪し、またT村の同じオヤジギャクに冷や汗をかいたのだが、そのことはもう繰り返さない。)
ホテルに帰ると、私とギャリさんはT村に別れを告げた。彼は、多忙なサラリーマンながら年休を5日も取って、我々の五島列島と長崎の旅に付き合ってくれた。それだけでなく、ここまでの旅は、ほぼ全てT村が企画し、宿を予約し、夕食の食堂を確保し、その上様々な局面において笑いを提供し、時には冷や汗をかかせてくれた。彼なしでこの旅は実行できなかっただろうし、これほど楽しい旅にはならなかっただろう。

「ありがとう、T村!」と私たちは、固い握手を交わした。明朝T村は早起きして6時に飛び出し、少しでもキロ数を稼がんと長崎空港の近くまで力走する予定なのだ。一方、私とギャリさんは自転車旅を続け、明日は65キロ先の雲仙の先端の口之津まで走る。その後は、フェリーで天草に渡り、熊本まであと四日間の二人旅をする。
さて、この先がどんな旅になるのか、不安でもあり、楽しみでもある。
(その5「天草編」に続く)




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