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奄美大島を巡った自転車旅(旅行4日目、見里から赤尾木、走行60キロ)


2023/03/15


政治で特に大切なことは、教育文化を盛んにし、軍備を充実させ、農業を奨励するという三つである。

西郷隆盛


食事は大地に近いほどうまい

開高健


1. 賑わう名瀬の港町

見里の老ルパンの宿では、6時起床、7時朝食、8時半出発だった。もっと早く出発したかったが、老ルパン夫妻と話すことがたくさんあって遅くなってしまった。考えてみれば、大和村の宿でも女将さんと親しくなって世間話に耽ってしまった。それも、奄美の人たちが懐かしい昔の日本人の良さみたいなものを持っているせいだ。私は、そんなにたくさんの国を旅行した訳ではないが、どこの国でも田舎に行けば行くほど、人が良くなっていく気がする。なぜだろう。


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見里の村の前には、東城内海という丸い湾がある。まるで隕石が落ちてできたクレーターのようにまん丸だ。そこを過ぎると、今度は城海岸がある。朝日に輝く城海岸は美しく、わざわざ海岸の近くまで自転車を引きずって行って写真を撮った。日本には美しい海岸線が数多あるが、奄美のように、こう次から次へて美しい海岸が出てくると、なかなか先へ進めない。


だから、もうあまり止まらないことにして、最初の目的地である名瀬港を目指してせっせと走る。昨日に引き続き、奄美の大動脈国道58号にはトンネルが多い。しかし、昨日奄美最長の網野子トンネル4.2キロを制覇したから、もうどんなトンネルが出現しようと驚かない。


この58号は、おかしな国道である。私は知らなかったのだが、昨晩老ルパンに聞いたところによれば、58号、いわゆる「ゴーパチ」は、北は鹿児島市の西郷隆盛の銅像からスタートし、種子島、奄美大島を経て、沖縄の那覇までつながっているそうだ。調べてみると、全長879キロ、海上部分609キロ、陸上部分270キロで、海上部分はフェリー航路だ。こういうのを海上国道と呼ぶらしいが、全国に24路線もあるという。その法的根拠は、「双方の陸地にある国道がフェリー航路などによって結ばれていて、同じ交通系統にあたると判断されたときに国道としてみなされている」ということらしい。へえ、驚いた。


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そのゴーパチをせっせと走り、10時半には名瀬港に着いた。私たちの奄美一周サイクリングでは、ここまで逆時計回りに島を三分の二回ったが、ここからは名瀬を起点にメビウスの輪のように方角を変え、今度は時計回りに島の北側の残り三分の一を回って旅を終える。

三日前に名瀬を通った時は雨が降っていたので、寂しい港町という印象だった。しかし、今日はお日様が眩しくてだいぶ感じが違う。図書館や病院にはたくさん人が出入りし、女子高生はキャアキャア言いながら通りを歩いている。日本が老齢化して以来、田舎は老人ばかりになってしまった。都会には若者が多いが、都会の若者は今ひとつ元気がない。一方、奄美の女子高生はキャアキャア賑やかだ。日本全国、もっとこのキャアキャアを取り戻してもらいたい。


港近くのコンビニにはたくさんお客が出入りしていて、東京の調布あたりのセブンなんかと同じ光景だ。習慣とは恐ろしいもので、私たちも気がつくとコンビニに吸い込まれ、100円コーヒーを飲んでいる。T村は、「あーっ、やっぱり朝の一杯はこたえられませんな!」などとコーヒーを啜りながら言う。オーストラリアから日本に帰っていつも気がつくのは、昔から日本のおっさんという人種は、蕎麦の汁や味噌汁やコーヒーなんかを飲むと、半分くらいの人が必ず、「あーっ」とか「ほーっ」とか、大きな吐息をつくことだ。それがみっともないとか、だらしないとか、そういうつもりはないが、オーストラリアのおっさんたちは、不思議とそういう吐息はつかないで静かに飲む。単なる文化的な違いだが、日本育ちの私としては、大いに「あーっ」とか「ほーっ」とか口にした方が美味しいと思う。その点T村という男は純粋に日本的だ。私は、この「あーっ!」を聞くと、ああ、私は今確かに日本にいる!と心強くなる。


2. 防衛庁が着々と準備をしている気配がぷんぷん

名瀬を後にし、今度は時計回りに海沿いを行く。やがて大熊(だいくま)という漁港があり、ここから激坂になった。旅行四日目となるとだいぶ疲れてきているので、私たちはすぐに顎を出し、自転車から降りて歩いて登った。前は東シナ海、振り返ると名瀬の港の絶景だ。登りきると、大きな発電用の風車が立っていて、その下はゴルフ場だ。

景色は素晴らしいが、問題はこの先に残土処理場があるらしく、そこに向かうダンプがひっきりなしに走ってくる。奄美大島にこんなにたくさんダンプがあるのは驚きだ。土木には大きなお金が落ちる訳だから、奄美にも、ダンプトラックだけはたくさんあるのかもしれない。


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でも、この残土がどこからこんなにたくさん運ばれてくるのか?見回すと、ゴルフ場の横は自衛隊駐屯地だ。どうもそこが怪しい。駐屯地は、外からは迷彩色に塗られた宿舎が見えるだけで、奥に何があるかはちっとも分からない。現在の台湾や尖閣諸島などの地政学的なことを考えると、ここでは何かの準備が着々と行われていると考えても不思議はない。確か、沖縄から鹿児島にかけての島嶼群のさまざまな軍事施設が増強されていることをニュースで聞いた気がする。だとしたら、こんな極楽のような奄美大島にも、場合によっては由々しき事態が起こる可能性もなくはない。そんなことは断じて起きて欲しくない。


私が険しい表情で東シナ海を睨んでいると、T村がiPhoneをトントン指先で叩きながら言った。「えーと、この先お昼ご飯を食べる場所は大変限られておりまして、荒波(あらば)という場所の他は何もありません。とにかくそこまで行きまーす!」

お昼を食べられないのは困る。それこそ、今ここにある危機だ。そこで私たちは自転車にまたがり、長い坂を芦花部(あしかべ)という集落まで降りた。東シナ海に向かって滑り降りる素晴らしい下り坂だった。



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降りたところの芦花部は桃源郷のような集落だ。桜が咲いている、ミカンやバナナの木がある、小さな白い教会がある。苔むした石垣があり、小さな港があり、青い海が広がっている。外海だから台風の時などは荒れるだろうが、今日は暖かく、穏やかで、風も凪いでいる。街道筋の桜も濃いピンクの花も満開だ。そんな光景の中をゆっくり、ゆっくりペダルを漕いでいくのは至福だ。

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3. 天佑という他ない、美味な昼食をいただく

海岸沿いの道をのんびりいくと、じきに荒波地区に出た。ここに一軒だけ食堂があるとT村は言う。昨日も一昨日もそうだったが、奄美ではお昼を食べるとなると、店が少ないから一苦労だ。自動車なら名瀬まで戻ることもできようが、自転車ではそうはいかない。もし、ここが開いていなかったら、私たちは昼飯抜きだ。

T村はGoogle地図でそのAという食堂の位置を確かめ、私たちはそこへ近づいていった。それらしい建物が見えてきた。やっていなかったらどうしようと、恐る恐る中を覗くと、お客がたくさん入っている。

「良かった、やってるぜ!」とT村はガッツポーズ、旅行ガイドの面目を保てたという表情だ。中に入って席に着き、店の青年に「メニューは?」と尋ねると、そんなものはなく、「シマ食の定食はいかがですか?」と言う。ありますものは、その定食とウドンだけだ。「じゃあ、それでいいや」と私もT村も定食に決まり。

まだ12時前と言うのに、どんどんお客がくる。他に店がないから当然だ。私たちは気持ちの良いテラス席に座ってあたりを見回せば、向こうの畑に、何か緑の丸い果実がなっている。「あれって、パパイヤ?」と私は尋ねるが、T村は「さあね、多分そうじゃないの?」とあやふやな答えだ。


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やがてシマ食定食がやってくる。キャベツと蒟蒻とにんじんと豚の骨付き肉の煮込みがメイン、それと大根と青パパイヤとにんじんのサラダ、島牛蒡のかき揚げ天ぷら、芋の味噌汁、赤米を混ぜて炊いたご飯、島バナナと黒糖の蒸しパン、それからミキと言う名のお米の発酵飲料などがお盆に載ってきた。店の青年が丁寧に一品一品が何であるか説明してくれた。


私は青年に、「あっちの畑の、あの緑の果実はパパイヤですか?」と尋ねる。「そうです、あれは青パパイヤです。ここらではいっぱい獲れます。」青年によれば、この定食のほとんどの材料が、ご飯の果てまで島で収穫されたものだという。後から来た客も同じ定食を注文するが、もう我々が注文した分で今日は売り切れだった。この定食にありつけたのは天祐という他ない。


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お腹も空いていたので、早速食らいつく。この定食は、豚肉以外は全部野菜で、言ってみればベジタリアンの食事なのだが、こうやって土地の物を使ってしっかりと気持ちを入れて作った食事というのは、ベジタリアンであっても滋味に溢れ、実にしっかりと食べ応えがある。私は、特に青パパイヤのサラダには感激した。青く、サクサクとした食感が珍しい。その青パパイヤを食べながら、向こうの畑を望めば、そこにも青パパイヤがなっている。私の口に入っているものが、すぐそこの畑にうわっている訳だ。ふらりと昼飯を食べに入り、その食堂で食べているものが、全てその数キロ圏内で収穫されたものだなんてことは、滅多にあるものではない。東京なんかでは絶対あり得ない。日本の食糧の自給率は壊滅的レベルだが、奄美はまだ実に健康的だ。


恥ずかしいが、私はその青パパイヤを噛み締めながら、胸がいっぱいになった。食べれば食べるほど、その感動が胸の中で膨らんでいく。東京で昼飯を食べると、三回に二回は、どうしてもこんなまずいものを食べてしまったんだろうと後悔するが、奄美では逆だ。毎日、驚かされてばかりいる。


私はT村に言った。「俺、ここが気に入ったよ。家買って住んじゃおうかな。」T村は、「そうだな、買っちゃえよ、きっと安い家がいくらでもあるぜ。俺も遊びにくるからさ」と言って、ガハハハと笑った。T村は笑ったが、私は、その時かなり本気だった。

日本人でそういうことをする人は少ないだろうが、私の住んでいるオーストラリアの人たちの中には、休暇で田舎や外国を旅行してその場所に一目惚れし、衝動買いで家を買ってしまったと言う人がたまにいる。私の知人にも、オーストラリアの北部のケアンズとか、南仏の田舎なんかに衝動的に家を買った人がいる。実は私はもう25年オーストラリアに住んでいて、日本には実家も何も拠点がないので、どこか田舎に小さな家かアパートを買おうかと思案しているのだ。


そのせいもあって、私の中で奄美大島という可能性が突如膨らみ始めた。だが突然、作家サマセット・モームの『ロータス・イースター』という短編を思い出した。それは、どこだったか地中海の小島に発作的に惚れ込んで住み着いた男の話だ。男は、英国人の元公務員か何かで、年金を持ってこの島に移り住んだのだが、何年か暮らすうちに持ち金もなくなり、最後はホームレスになってしまったという話だ。いかん、いかん、衝動買いは良くないという教訓だ。


築何年?
築何年?

とにかく、ここのテラスの居心地が良かったので、私とT村は食後にコーヒーを注文し、少し長居して、明るい太陽を楽しんだ。人生では、何かをせっせとやっている時間が主だろうが、旅先では、たまにこうやって何もせずにいるのが楽しいという瞬間がふと訪れることがある。これこそ旅の醍醐味だ。


4. 南州の陋屋にて、日本の近代を振り返る


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シマ定食を食べて和やかな時を過ごした私たちだが、いつまでもここにいるわけにもいかないので銀輪を先に進めた。どこまでも続く岩だらけの海岸線を走ると、人気のない磯には、打ち上げられたゴミが散乱している。そのほとんどがペットボトル、あるいは漁業で使うプラスチックのブイのような容器だ。昔はこういう物はガラス製だったから割れれば海に沈んで朽ち果てたのだろうが、今はプラスチック製で、1000年経とうがこのままだ。


今井崎の突端をぐるりと周って数キロいくと、静かな龍郷町の集落だった。みれば、西郷南洲流謫跡(るたくあと)と言う看板がある。



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「おー、ここは西郷隆盛が島流しになって暮らした場所だ」と歴史好きのT村は嬉しそうだ。私たちは自転車を降りて集落を散策した。塀越しに西郷南洲流謫跡をのぞけば、茅葺き屋根の小さな古い家屋がある。その苔むした石塀や鬱蒼とした樹木には、150年以上の歳月を感じさせる重厚さがあった。当時の龍郷の集落がどれほど寂しい場所であったか全く想像がつかない。今でも十分静かで、この集落ではほとんど人影というものがなかった。


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集落の端に、愛加那の泉があった。行ってみたが、猫が1匹番をしていただけだった。これは西郷の島の妻となったと愛加那が水汲みをした井戸ということだ。西郷と彼女との間には菊次郎という息子が生まれているが、菊次郎は米国留学して外交官になった。外交官になってからまた留学し、今度はジョンズ・ホプキンズ大で政治学を勉強し、後に京都市長になった。龍郷の人には悪いが、そんな昔に、こんな静かな場所からそんな逸材が出るとは驚きだ。




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(西郷さんの家の前で)
(西郷さんの家の前で)

5. ペンションに泊まり、五右衛門風呂で汗を流し、タコ飯に舌鼓


龍郷からは、今夜の宿まではそう遠くない。ところが、私の自転車のギアの調子がおかしくなった。停止し、調整を試みる。ギアの調整というのは他の物事と同じで、ごく簡単に直る時もあるし、なかなか直らないこともある。自転車のギアは複雑な形をしているので、知らない人は、どこをどうしたら直せるのか見当もつかないだろう。私とT村はかなり年季が入っているので、ギアくらいたちどころに直してしまう。と言いたいところだが、シマノも(自転車の部品メーカー)どんどん新しい製品を出してくるので、そうは問屋が卸さない。今日も、どこがどうおかしいのか見当がつかず、あっちを緩めたり、こっちを締めてみたりしたが一向に直らない。困り果てていたら、昨年山形の最上川下りをした時も同じ箇所がおかしくなったことを思い出した。ひょっとしたらと思い、ハンドルにつけていたバッグの位置を直したら、ギアも直った。要するに、ギアレバーがハンドルのバッグに当たっていて、それでちゃんと変速しなかっただけだった。山形の時と同じだ。記憶というのは不思議なもので、万事休すにならないと蘇ってこないものがある。いや、ただ私の脳味噌が古びてきているだけかもしれない。


今夜の宿は、赤尾木村のMテラスという、ちょっと洒落た名前のペンションをT村は予約していた。ペンションと民宿はどう違うかというと、ペンションは洋風、民宿は和風というのが私の理解だ。


いや、違いはそれだけでない。私とT村が若い頃のペンションは、アンノン族のギャルたちが泊まる宿だった。もはや死語だろうが、アンノン族というのは、アンアンとかノンノンとかのファッション雑誌を読んで、そこに出てくるモデルのようなぴらぴらした服でそこらをウロウロし、ペンションとかプチホテルとかに泊まり歩く若い女性、すなわちギャルだ。アンノン族は、ソフトクリームを食べながら歩くのが特徴だから、あの頃は観光地にソフトクリーム屋が筍のようにたくさんできた。しかし、いくらアンノン族でもソフトクリームだけでは腹の足しにならないので、クレープ屋もたくさんできた。やがてバブルがはじけて、ソフトクリームやクレープ屋が絶滅し、ペンションも壊滅したので、アンノン族も食べるものや泊まる場所がなくなって絶滅したと言う説がある。


無論私とT村は、若い頃サイクリングでペンションなんかには泊まったことなど一度もない。いつもキャンプか野宿か、せいぜい民宿かユースホステルだ。しかし、アンノン族の多く出現した清里や飛騨高山、北海道の旭川などのメジャーな観光地を自転車で通過することは時々あった。そう言う場所を、日に焼けた我々が勇ましく自転車で走り抜けると、アンノン族のギャルたちは、片手にはソフトクリームを持ち、もう片手をちぎれるように振りながら、黄色い声で「頑張ってー!」と声援を送ってくれた。我々も、それに元気づけられて、大いに張り切ったものだ。


その私たちも還暦を超え、残り少なくなったペンションという晴れの場所に宿泊できるようになったのだから慶賀に堪えない。ところが、せっかくペンションに泊まっても、肝心のアンノン族のギャルはもういない。せいぜいそこにいるのは、元アンノン族のおばさん達、今で言う女子会の人達であろう。でも、女子会とアンノン族では、全くイメージが違う。そう考えると寂寥感でいっぱいになる。

私は、こんなことを考えながらペダルを漕いでいた。すると、道端にペンションMテラスの看板があった。そこを入ると、大きな、おしゃれな二階建ての建物があった。そこが今夜の宿だ。


Mテラスを経営しているのは、やはり年配のご夫婦だった。ご主人は東京出身だが、漁師だと言う。奥さんは奄美の出身。この建物は、二人が自力で建てたという。すごいものだ。奄美のペンションはさすがに力が入っている。バブル崩壊もサバイブし、立派に生存しているのだ。ただ、残念なことに、ギャルもおばさんもいなくて、宿泊客は我々だけだった。 

荷を下ろしていると、「お風呂沸いているから入ってくださいよ、うちは五右衛門風呂だからね!」と女将さんが言う。「この五右衛門風呂は、工事してくれる職人さんが奄美にはいなくて、わざわざ喜界島から来てもらったんだよ」と、ご主人。喜界島は、奄美の沖合の島で、そこにも島民が暮らしている。きっとそこでは五右衛門風呂がたくさん残っているのだろう。究極のSDGs である。


五右衛門風呂の煙
五右衛門風呂の煙

「五右衛門風呂、懐かしいなあ。我が家も昔は五右衛門風呂だったんだよ」とT村。T村は高校時代に静岡の御殿場に住んでいて、そこの家が五右衛門風呂だったと言う。私がうんと小さい時、東京の小金井にあった祖父母の家も五右衛門風呂だった。40年くらい前までは、五右衛門風呂も結構たくさん残っていたのだろう。


早速、五右衛門風呂に入る。私の祖父母の家の五右衛門風呂は鉄製のご飯釜みたいな風呂だったが、このペンションの風呂は、普通のホーローバスだが、底に踏み台みたいなカバーがついている。この下で火が燃えていて、風呂を温めているのだろう。いい気分でつかっていたら、おじさんが「湯加減はどうですか?」と声をかける。「最高です!」と私。五右衛門風呂は、ガス風呂とは違って、お尻の下から、ぽこぽこ湯が沸いてきて気持ち良い。薪の匂いも野趣がある。きっと近くの海岸から集めてきた流木を薪にしているのだろう。

夕食は、ご主人が漁師だけあって、海の幸のオンパレードだった。特に煮魚が美味だったので、「これは何の魚ですか?」と尋ねるが、「さあ、何だったかな?忘れちまったよ」と、非常にアバウトだ。圧巻はタコ飯だ。私はタコ飯が大好きだ。「このタコは私が捕まえんたんだよ」と女将さん。写真を見せてくれたが、女将さんの身長くらいもある、お化けダコだ。


「こんなタコが奄美にはたくさんいるんだよ、あっはっはっは」と、女将さんは豪快に笑い、「私はよく、夜に魚を捕まえに行くんだよ」と言う。「捕まえる?魚って、釣るんじゃないの?」と聞くと、「いいや、夜中に浅瀬に行って懐中電灯で照らすだろ、すると魚が寝てるのが見えるんだ。それをモリでついて捕まえるんだよ。釣るより、ずっと簡単。」

うちの息子は大の釣り好きだから、こうなると一度奄美に連れてきて釣りとか磯遊びをしなくてはいけない。


お刺身と煮魚とタコ飯と、畑の野菜と、手作りのパパイヤの漬物などをお腹いっぱいいただいたら、私たちは9時前にはバタンキューと寝てしまった。


(奄美サイクリング4日目終わり。5日目最終日に続く)。


 
 
 

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