奄美大島を巡った自転車旅(旅行3日目、古仁屋から加計呂麻島を経て見里まで、走行40キロ)
- 鉄太 渡辺
- Mar 5, 2023
- 18 min read
2023/03/05
時には人生が真っ暗な、明かりのないトンネルみたいに感じられることもあるけど、
先を目指して歩いていけば、必ず素晴らしい場所にたどり着けるものさ
ジェフリー・フライ(小説家)
ひどいコーヒーだって、ぜんぜんコーヒーがないよりマシでしょ。
デビット・リンチ(映画監督)
1. 逆打ち奄美巡りは続く
昨日は、我々としては長距離の80キロを走ったから、T村と私は、今日は半分くらいの40キロだけにして、その分ゆっくり奄美観光をすることにした。
古仁屋のビジネスホテルを出て、T村と私が最初に向かったのは古仁屋のフェリーターミナルだ。昨晩のミーティングでは、まずは古仁屋から対岸の加計呂麻島(かけろまじま)に渡ってみることに満場一致で決まった。8時10分のフェリーで加計呂麻の生間港に渡り、そこから15キロほど島を走って、今度は瀬相港から11時半発のフェリーで古仁屋に帰ってくる趣向だ。フェリーはたった20分、加計呂麻島には2時間半足らず滞在するだけだが、せっかくここまできて行かないよりはマシだ。その後はまた古仁屋から走り、午後には世界遺産のマングローブ林とクロウサギのいる森がある見里集落まで行くのが今日の予定である。

加計呂麻島は、奄美大島の南端の細長い島だ。この島が何で有名かと言うと、渥美清主演、寅さんシリーズ最終作『寅次郎紅の花』のロケ地として、そして作家島尾敏雄が戦争中に特攻魚雷艇基地の隊長として駐屯していたことがあると言う2点のようだ。島尾敏雄には『出発は遂に訪れず』など、加計呂麻が舞台の一連の作品があるようだ。しかし、私は、その寅さん映画も見てないし、島尾文学も読んだことがないので、コメントは差し控える。
それ以外に、何で加計呂麻島が知られているかと言うと、何もなくて、とても静かで、まるで戦前の奄美大島みたいな土地柄だからだそうだ。複数の奄美の住民に聞いたから本当にそうなんだろう。でもよく考えてみると、静かで何もないから有名と言うのは、どこか矛盾している気もする。しかし、今や静かで何もないところなんてあまりないから、それで有名になることもあるかもしれない。それに、「カケロマ」という、あまり日本語っぽくな名前も気に入った。
2. 加計呂麻島の静けさ、怪しいロン毛男と僧侶
奄美大島は、本州や九州に比べれば、ずっと小さな島だ。その島から、さらにもっと小さな加計呂麻島に行くのは、まるで魔法の箱を開けて、さらにその中の小箱を開けるようなワクワク感がある。
私たちは、8時10分発加計呂麻島行きのフェリーの乗客となり、車両デッキに自転車を預け、客室前方に陣取った。とても小さいフェリーだ。私たちは、そのたった20分の小さな船旅を最大限楽しもうと張り切ったのだが、すると、もう一人、いやもう二人、私たちと同じ考えの人間がいることに気がついた。その一人は、怪しい、むさ苦しいなりのロン毛男である。この男は、原付バイクでフェリーに乗船し、客室では我々のすぐ隣に席をとったのだが、挙動に落ち着きがない。うろうろ客室のあちこちを行ったり来たりしている。服装は、一般の観光客のようではなく、よれよれジャンバーに薄汚いTシャツ、薄汚れたバックパックを背負っている。薄気味悪い男なので、私はこのロン毛の男を無視することにした。

もう一人の怪しい男は、僧侶風の若い男である。こやつも客室をうろうろし、こともあろうにiPadを両手に捧げ持ち、何かぶつぶつ呟きながら、短い船旅の全てを撮影している。私が、この男を僧侶だと考えた理由は、1)坊主刈りの短髪、2)手首に数珠、3)作務衣のような和服、4)草履を履いている、と言った点が挙げられる。ただ、僧侶のくせにiPadを持っているのは解せないが、昨今僧侶だってiPadくらい持っているのかもしれない。「あの男、坊さんかな?」とT村に意見を聞いたが、T村は外見で人を判断したりしないと見え、「どうか分かんないぜ」と慎重な意見を吐いた。確かにそうだ。1)から4)の観点をやや広く捉えてみると、もしかしたら「ヤ」から始まって「ザ」で終わる職業の人であるとも言える。その方達も時として僧侶のような格好をしているからだ。旅行をしていて面白いことの一つは、いろいろな人間観察ができることかもしれない。

小さなフェリーの足並みは意外に早く、静かな大島海峡をぐんぐん渡り、すぐに生間港についた。車両デッキに降りると、ロン毛はすでにバイクのエンジンを吹かしている。そしてフェリーが着岸するや否や、係員の指示も待たずに飛び出していった。間違いなく危険分子だ。

私たちは、徒歩の旅客に混じってゆっくり上陸し、目前の観光案内所にむかった。建物の前には加計呂麻の観光案内板があるのだが、僧侶風の男は、この観光案内板をじっくり眺めながらiPadで撮影している。どうして僧侶が加計呂麻島の観光をしているのだろう?もしかしたら法要をしに来たのかもしれないが、それなら檀家か誰かが迎えに来ていても良さそうだ。だが、そんな様子もない。
そんな思索に耽っていると、驚いたことに、またあのロン毛男が現れた。実に鬱陶しい奴で、私と僧侶風の間に割り込んで、観光案内板をキョロキョロ見ている。早く姿を消してほしい。
そのうち、T村も出発の用意ができたので、ロン毛男と僧侶風をそこに残し、私たちは瀬相に向かって海岸線を走り始めた。
3. 古仁屋のマグロ丼屋で、ロン毛男に出し抜かれる
私とT村は、海岸沿いの道をすいすい走った。「加計呂麻にはほとんど車は走ってないけど、島民のじいちゃん婆ちゃんが、軽トラックで飛ばしてくるから気を付けてね」と昨晩の料理店の女性が言っていた。実際、交通量は僅かだったが、油断していると時折すごいスピードの軽トラックが狭い道を通る。相手は、こんなところをまさか自転車が走っているなんて思ってないから、気をつけないと命が危ない。

加計呂麻の岸辺からは、対岸の古仁屋がすぐ近くに見える。まるで瀬戸内海のミニチュア版だが、海の色は遥かに明るく、水も澄んでいる。植物も熱帯風で、葉っぱの大きなシダ風の植物、椰子の木のようなソテツ類、ぐねぐねと曲がって生えているガジュマルなどが目に入る。ここにゆっくり滞在して植物の名前を覚えても楽しいだろう。我々は、所々で止まっては写真を撮ったりしてはしゃぎながら、海岸線を北上した。
一時間も走ると、島尾敏雄文学碑と島尾が隊長をしていた特攻隊の基地跡へ行く曲がり角に至った。帰りのフェリーの時間もあるので、我々はそちらへは行かずに瀬相港方面に向かった。時折通り過ぎる人家周辺にも人影もほとんど全くない。唯一人がいたのは、海水を煮立てて塩を作っている工場だった。あとは全く人影がない。

私たちは、程なく瀬相港にたどり着いた。まだ少し時間があったので、加計呂麻トンネルを抜けて、1キロほどの、島の反対側の海に出た。外海の海岸には燦々と太陽が照っていて、まさに南国だった。島をぐるぐる回っていると自分がどちらを向いているのか分からなくなる。携帯を出して方角を確かめると、我々の見ている方角には徳之島があるはずだった。と言うことは、その先は沖縄だ。このあたりは、どっちを向いても広い海の真っ只中なのだ。
瀬相港に戻ると、フェリーがもうすぐそこまで来ていて、港には自動車や自転車やバイクや徒歩の客がたくさん待っていた。一軒だけ土産屋もあったので、私たちはそこで黒糖のお菓子などを買い求めてから、船上の人となった。
たった2時間半の加計呂麻島滞在だったが、とても楽しかった。ところが驚いたことに、古仁屋へ向かうフェリーには、またあのロン毛男も乗っているではないか。向こうも我々を見ると、「あっ、さっきの二人連れだ!」という表情をした。このような人里離れた場所を旅していると、同一人物に複数回出くわすことがあるが、美しい一人旅の女性ならまだしも、私はこのロン毛男に付きまとわれて非常に不愉快な気持ちになった。幸いなことに、僧侶風の姿はなかった。
古仁屋に着くと昼だったので、我々は走り出す前にフェリーターミナル内の食堂で昼飯を食べることにした。ここは海鮮丼が有名らしいとT村は言う。私たちは、海鮮丼に、決して低くない期待感を抱きながら自転車を駐輪すると、すぐさまその食堂に向かった。すると驚くべきことに、またもやロン毛男が既に着席しているではないか。私は開いた口が塞がらなかった。さすがのT村も、「あ、またあのロン毛がいるぜ」と、忌々しそうに言った。とにかく、これではせっかくの海鮮丼が不味くなる。そこで私は、ロン毛男を見ないように背を向けて座った。

私たちは、その有名な海鮮丼を食べた。非常に結構な味だった。ロン毛がいなければもっと美味しかっただろう。値段はちょっと高かったが、築地あたりで同じレベルの海鮮丼を食べたら、この程度では済まないだろう。そう思って我々は満足して店を出た。ロン毛は、わたしたちよりも早く食べて、もう姿は見えなかったので、私はホッとした。もう二度と見たくない。
4.網野子トンネル4.2キロの悪夢
それから、すぐに次の行先の見里村に向かうのかと思ったら、T村は「お前に、どうしても見せたいものがある」と言う。「奄美大島にはハブと言う毒蛇がいるが、これを捕まえて役場に持っていくと3000円くれる。その窓口があるから、珍しいから見学してこようぜ」と彼は言うのだ。
私は、前にも書いたが毒蛇が好きではないので、そんなものは見たくなかったのだが、T村は有無を言わせず私を役場に連れて行った。古仁屋の役場は、町の規模からすると立派すぎるような鉄筋コンクリートのビルだったが、ハブ受付窓口は、裏のみすぼらしいプレハブの小屋だった。確かに、その小屋には、ハブを持ってきたら受け付けます、と言う張り紙があったが、あまり利用されている風ではなくて、係も不在だった。でも、私が「ふーん、こんなものがあるとは奄美のハブも災難だな、びっくり、びっくり!」と大袈裟に感心してみせたのでT村は満足したようだった。
そこで、ようやく私たちは見里に向かうことができた。見里までは26キロ、およそ2時間の走行だ。まだ陽は高く、それくらいの距離は余裕のよっちゃんだ。ところが古仁屋を出ると、いきなり激坂であった。私のお腹ではまだ海鮮丼が消化されてないので、いきなり腹が痛くなった。私は立ち止まって呼吸を整えたが、小学校の時、給食を食べた後すぐにドッジボールをしてお腹が痛くなったことを思い出した。
激坂を越えると地蔵トンネルがあった。長さは1キロである。1キロくらいどうってことはない。実は今日の午後、国道58号のこの先にはいくつかトンネルが待ち構えていて、その中に網野子トンネルがある。長さ4232メートル、奄美大島最長のトンネルだ。これくらいになると、気合を入れないと通り抜けられない。迎え撃つと言う感じだ。
地蔵トンネルを出て、綺麗な谷間のようなところを走り、勝浦トンネル1122メートルを通る。この程度のトンネルは笑止千万である、笑っている間に通り抜けた。

そのすぐ後に網野子トンネルが待ち構えていた。トンネルの中は、暗く、不気味である。まず私は、トンネルの前でサングラスを普通のメガネにかけ替えた。トンネルでサングラスをかけていると、暗くて何も見えない。
普通は、トンネルには歩道がついているものだ。ところが驚いたことに、網野子トンネルにはついてないではないか。いや、あるにはあるのだが、幅が狭く、ガードレールもついてない。自転車には幅が狭くて走れない。つまり、歩行者や自転車は、なるべくこのトンネルを通らないでちょうだいねと暗に仄めかしているのだ。私は、こういう政府の態度を呪う。国土交通省の奴らめ!
「どうする?」とT村と私は、トンネルの入り口で顔を見合わせた。しかし、どうするもこうするもない、前進あるのみだ。「仕方ない、気をつけて車道を行こう」と私は言った。そこで私たちは、自転車の前後のライトをピカピカ点滅させて、4キロ越えのトンネルに潜入した。
ところが、この4キロのトンネルは上り坂だった。最悪だ。こうなると、私たちの平均速度は時速8キロ前後、抜けるのに30分かかる。トンネルの随所には、こっちの入り口まで500メートル、あっちの入り口まで3700メートル、と距離を書いた標識がある。でも、登りだから、なかなかその距離が狭まらない。私はその間せめて何か楽しいことを考えようと努力しつつペダルを踏んだ。中学時代の初恋の甘酸っぱい思い出、最初のデートで見た映画のことなど考える。ところが自動車が迫ってくるとトンネルは轟音で満たされ、私の脳裏もゴォーッと騒音でいっぱいになる。そうなると初恋の思い出は、昨年歯医者で、インプラントを埋め込んだ手術の記憶に入れ替わる。局部麻酔でインプラントを入れるのは、やったことがある人は分かるだろうが、まるで口の中に鑿岩機を入れてガンガン道路工事を行なっているかのような衝撃なのだ。
さらに、4.2キロの網野子トンネルは、トンネルの真ん中で「く」の字に曲がっている。だから、なかなか出口が見えてこない。そのせいもあると思うが、換気もされてないようで、非常に空気が悪い。私とT村はまさに、窒息寸前の状態でトンネルの中をゆっくりと進む。その間、私の頭の中では、初恋の思い出とインプラント手術の記憶が2、3分おきに入れ替わる。
トンネルを通過するには、実際25分ほどかかった。それは私の最近の人生の中では、もっとも長い25分だった。トンネルを出た直後の私の感想を一言で表現するならば「生還」だ。二人は、汗だくの脱水症状気味で数分間トンネルの出口に佇んだ。その後、その先2、3キロ続く長い下り坂を無言の虚脱状態で下った。

5.ご隠居ルパン三世が営む宿
下り坂を降り切ると、綺麗な谷間が続き、桜の木が道路沿いにずらっと植わっていた。そして、その濃いピンクの花が、今が春とばかり咲き乱れている。奄美では一月末に桜が咲くのだ。トンネル地獄のトラウマから立ち直りつつある私とT村は、美しい桜に癒されながらペダルをこいだ。
見里はもうすぐだった。その手前に、世界遺産になっているマングローブに覆われた黒潮の森という入江がある。ここにドライブインがあったので、「とにかくコーヒーでも飲んで、一休みしよう」と我々はストップした。
ところが、ここのコーヒーは世界一不味いコーヒーだった。不快になるから、どれくらい不味かったかは描写を控える。そんなことにいちいち腹を立てていては、人生を無駄に過ごしてしまう。それが不味いコーヒーの教訓だ。
我々は、顔を見合わせて「とりあえず、今日の宿まで行ってしまいましょうか」という結論に辿り着き、自転車にまたがると、見里の宿に向かった。
すると、驚いたことに、我々の泊まる民宿のご主人は集落の入り口で待ち構えていたのだった。私たちは、実はそんなこともあるだろうと、用心しながら自転車を進めていたのだが、やはりそこは相手の領地、まんまと迎え撃ちにあってしまった。
そう言うのも、この宿からはT村が宿泊予約のメールを入れた時点で、非常にハイな調子の返事がきていたからだ。そのメールとは、宿泊の際には、見里村周辺の良いところを全部見せてあげたい、そして、ここがどんなに素晴らしい場所かお二人に自慢したい、こんな趣旨だった。
こんなことをメールに書いてくる宿は、そうあるものではない。こういう宿は要注意だ。もしかしたら、一晩中奄美大島の自慢話を聞かされるかもしれない。奄美の島唄や、もしかしたら踊りなんかも無理やり覚えさせられるかもしれない。酒が飲めない私にも黒糖焼酎を「飲め、飲め」と無理やり勧める可能性もある。一方我々は、自転車旅ゆえ、くたくたに疲れて宿にたどり着く。宿に着いたらまずお風呂に入って疲れをとりたい。それから夕食を食べてすぐ寝たい。それが本音だ。だから、過分な歓待は正直言って荷が重い。
そんな私たちが、県道から見里集落へ曲がる角で止まって地図を見ていたら、「T村さーん!」と呼ぶ声がする。ギクッとしながら見れば、軽トラックから愛想の良さそうな初老のおじさんが手を振っている。それはまさに、今夜泊まる宿のオヤジさん、すなわち老ルパン三世だった。このご隠居がなぜルパン三世なのかは説明を省く。なぜなら、この宿に行けばすぐに分かるからだ。興味がある人は、奄美に行ってこの宿に泊まってみれば良い。

老ルパンは、白髪の優しそうなおじさんだった。「どうもー、お世話になりまーす。ここでわざわざ待っててくれたんすか?」とT村は尋ねる。すると老ルパンはちょっと慌てた風に、「いやあ、そんなことないっすよ。用事で出かけて帰ってきたら、自転車に乗ったあんたたちが見えただけですよ」と言う。だが、そうではない。偶然を装ってはいるが、実は軽トラックで我々がやってくるのを巡回しながら待っていたのだ。
そこから宿まではすぐだった。宿は、大きなガジュマルの木が門のところに生えている、古いが素敵な一軒家だった。老ルパンは、我々が荷を解いて落ち着くのが待ちきれない様子で、何かと世話を焼きながら近くを徘徊している。
我々の泊まる部屋は大きな日本間で、博物館のようにあらゆるものが床の間や壁にかけてある。この部屋に15分いただけで、この家の家族構成、おじさんの生い立ちや元の職業やなど、あらゆることが分かってしまう。

6. モダマの密林にクロウサギが舞う
一服してお茶を飲むと、老ルパンは提案する。「どうでしょう、今すぐモダマの自生林を見に行ったら?車ですぐ近くなんです。それから帰っら、お風呂に入って夕食を食べてもらって、その後は、クロウサギを見に出かけます。それも車でご案内します。お嫌でなかったですけどね、どちらもとても珍しいものなんですよー。」
T村と私は、やっぱりね!と言う風に目配せしあった。ここはセールスマンで交渉ごとには慣れているT村に下駄を預けることにした。「えーと、あのー、お風呂に私たちは入りたいわけです、あのー、自転車で来て、疲れているわけでしてー、はい。だから、まず汗を流して、それから食事をいただいて、それでも体力が残っていたら、色々とやったらどうかと?」と、T村は主張した。
すると、老ルパンも、「えーと、お風呂はすぐ入れられますから、まずは明るいうちにモダマの森を見ていただいて、それからすぐ帰ってお風呂に入ってもまだ時間はたっぷりありますです」と負けずに交渉が上手である。まあ、ここで議論しても仕方がないので、とりあえず、そのモダマとか言うものを、老ルパンの運転で見に行くことにした。
そのモダマだが、それは蔓草のような植物で、それに大きな豆のような実がなると言う話だった。それは、どこか遠いアフリカのような外国から遠い昔に流れ着いたもので、奄美でもこのあたりにしか自生してないと言う。そんなことを老ルパンは、熱心に車中で話してくれた。私は、蔓草とか豆にはそれほど興味がなく、せいぜい15センチくらいのえんどう豆みたいなものが蔓草からぶら下がっているものを想像していた。
(モダマの森にて)


ところが、それはそんなスケールではなくて仰天した。モダマの豆は、優に1メートルはある巨大豆で、それがまた直径1メートルくらいある太い蔓からぶら下がっているのだ。老ルパンは「ジャックと豆の木ですよ、アハハハ」と言っていたが、それは決して誇張ではない。そんな怪物のような草というか樹木が、ニョキニョキと、密林の中に蔓延っているのだった。
私とT村は、その光景にびっくりしながら、時を忘れてモダマの密林を老ルパンについて歩いた。百聞は一見にしかずと言う言葉の通りだ。私は、やはり地元の人の言うことには、素直に耳を貸そうと心を入れ替えた。
宿に戻って、風呂に入れてもらい、老ルパンの奥さん(とても優しくて素敵な女性である)の手作りの鶏飯の夕食をご馳走になった。鶏飯は一昨日にも大和村の民宿で頂いたが、それに負けずと劣らず、全く文句のつけようのない、立派な味の鶏飯なのだった。おじさんとおばさんも、同じ部屋でご飯を食べた。それは、どこかの田舎の親戚に来ているような親密さで、私たちは、これまでずっと友達だったようにいろいろな話をした。奄美のこと、家族のこと、いろいろなお客さんのこと、民宿の経営のこと、話は尽きなかった。老ルパンと奥さんに会いたくて、3ヶ月ごとに福岡かどこかからやってくる女性さえいるという。
「さて、そろそろクロウサギを見に行きましょう」と老ルパンは、食後のお茶を飲むと言った。モダマの森の脅威的な迫力に感動した私たちに異論はなかった。
老ルパンと老ルパンの奥さん、それからT村と私は、真っ暗な裏山に車で向かった。裏山のくねくねとした旧道を、老ルパンはゆっくり車を走らせる。奥さんは、大きな懐中電灯で道路のあちら側やこちら側を照らし、クロウサギを探す。
「あ、いました!」と奥さんが声を上げて電灯を照らすと、そこにクロウサギがいた。クロウサギと言うが、濃い灰色をしたその動物は、確かにコロコロ太ったウサギだった。ただし、耳が普通のウサギよりも小さくて、爪は大きくて鋭い。
「あ、あそこにも、3、4匹かたまっている!」とまた奥さんが見つける。「あっちにもいる!」とT村も見つけた。私は、持参したカメラのI S O感度を最大まで上げて、望遠レンズでクロウサギの写真を撮った。こんな真っ暗なところで手持ちの望遠で写真が撮れるとは思わなかったが、とにかくシャッターを何度も切った。
(ちゃんと写っていたのはこれ一枚という、クロウサギ氏の写真)

その後も、クロウサギは出現し続け、全部で14、5匹は見つけただろうか。 老ルパン夫妻は、「こんなにたくさんクロウサギが出てくるのは、滅多にないことですよ!」とご機嫌だった。私とT村も、珍しい動物を間近で見ることができて興奮がなかなか収まらなかった。
「いやあ、私たちはね、こうやってお客さんがくると、クロウサギの山とかモダマの森とか案内して回るんですが、一緒に遊んでいるようなもので、私たちも楽しくて仕方がないんですよ」と、老ルパン夫妻は、ニコニコしている。そんな暮らしが楽しくて仕方ないと言う風だ。聞けば、年間に200組ほどお客がくるというから大したものだ。
この宿にいると、小学生に戻って、どこか遠い親戚の家に泊まりにきているような気分だった。歯を磨いて布団に入る。T村は満足そうに、「ふわぁー!」とあくびをして、そのすぐ後いびきをかいて寝てしまった。私もすぐにそれに続いた。
この宿に泊まったのは、全く正解だった。

奄美自転車旅行記、三日目終わり。四日目に続く




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