日本帰国中の自転車旅行第二弾: 山形県最上川サイクリング4日目(最終日) 羽根沢温泉から酒田、庄内空港から羽田まで (走行距離75キロくらい)
- 鉄太 渡辺
- Aug 11, 2022
- 13 min read
2022/08/11
空を飛ぶのに一番近いことは、自転車に乗ることかもしれない」
ロビン・ウィリアムス
「一人旅なら今日にでも出発できる。しかし、連れと共に旅する者は、もう一方の準備が終わるまで待たなくてはならない。」
ヘンリー・デビッド・ソロー
羽根沢温泉のぬるぬる湯でツルツルになれ!
朝早く目覚めた私たちは、羽根沢温泉のぬるぬるのお湯にもう一度入った。この温泉のお湯は、私がこれまで入った温泉の中でも、一番のぬるぬる系かもしれない。旅館の女将は、「私はこのぬるぬるお風呂に毎日入ってますから、お肌がとってもツルツルなんです」と言っていた。なるほど、見た感じそんなであったが、どれほどツルツルか試させてもらえなかったのは心残りである。
だが、それが事実なのだとしたら、このお湯には千金の価値があると言える。とかく女性というのは、お肌をツルツルにすることについては男性には想像もできないほどの熱心さを示す。だから、このぬるぬる温泉をインスタグラムでもっと宣伝したら、必ずや世界中から乾燥肌の女性が殺到し、銀山温泉の比ではないほど儲かるのではないか。頑張れ、羽根沢温泉!
さて、そんなことを考えながら朝ごはんを食べ、ツルツルお肌の女将にもお別れし、私たちは元気よく出発した。鮭川村までしばらく下りだから調子よくすっ飛ばした。ところが、途中からはきつい登りがあり、走り出して30分もたたないのに、私たちの足はもうオーバーヒート気味だった。昨日までの三日間で300キロ近く走ってきたから、一晩寝たくらいでは疲労は回復しない。小さな峠で、私とT村は肩で息をしながら、顔を見合わせて苦い笑いをした。言いたくないが、「やっぱ、ちょっと年かもな」と私。

山形県民とプチ交流
今日は最終日で、昼すぎには50キロ先の酒田に着いてなければならない。夕方には庄内空港からANAの飛行機で東京へ帰るからだ。最終日は慌ただしい。泣いても笑っても、これで私たちの最上川ツアーは終わりだ。
小一時間時間走り、古口という町で最上川沿いの国道47号に合流する。この辺は、松尾芭蕉が川下りをしたとされる景勝地だが、国道47号はトラック街道であり、悪いことに酒田まではこれが一本道だ。
その47号線をいざ走らんと、交差点で信号待ちをしていたら、隣の畑から80歳くらいの翁が歩いてきた。翁は自転車に乗っている私たちを見て親しげに話しかけてきた。私たちも山形県民と交流できる機会が生まれたので、喜んで会話を始めた…のだが、翁が山形弁で言っていることが、よく分からなかった。
翁 「おはよっすございだんだ。どさいぐなやっす?」
私たち「?」
翁 「そいずずてんしゃ、たげーんねがっす、けんなんぼやっす?」
私たち「??」
翁 「うんだがもすんね!」
私たち「???」
翁 「へばのー!!」
私たち「????」
信号が青に変わったので、そこで私たちと翁の交流は終わった。
(いい加減な山形弁を書いてすみません!)

トラック街道をひた走る
国道47号線は太平洋側の仙台と日本海側の酒田を結ぶ大動脈だから交通量が多い。その上、川沿いだから道幅も狭い。自転車には鬼門の道だ。轢き殺されないように路肩を走っていくと大型トラックやバスやダンプが、ハンドルの右側20センチのところをビュンビュン追い抜いていく。昨日田舎道をのんびり俳句をひねりながら走っていたのとは大違いで、景色を楽しむ余裕もない。こうなるとサイクリングは戦いで、我々は必死の形相で20メートルほど先を見据え、トラックに潰されてペシャンコにならないように曲芸師の綱渡りみたいに走っていく。
T村、バックパックを置き忘れる
そんなデッドヒートが1時間ほど続き、あと3、4キロで酒田というあたりまで来るとドライブインがあった。休憩だ。トイレに入り、コーヒーを飲みながら、私は、なんとかかんとかという名前の蒲鉾を食べた。串焼きで旨そうに見えたからだ。しかし、食べてみると、どうということのないものであった。ドライブインというのは、何でもかんでもかんでも串焼きにして美味しそうに見せ、それでお客の上前を跳ねようという魂胆だから油断できない。祭りの屋台と同じ手管だ。一方、T村はアメリカンドックを食べていた。そっちにすれば良かったと後悔したが、後の祭りだ。
さて、ここで20分の休止をとり、私は念には念を入れてトレイに二回行ってから出発した。私たちは、さっきよりもずっと軽快に走った。あと少しで酒田、もうこの地獄のような47号線とはおさらばだぜと思うとペダルも軽い。ところが最後にやけに長いトンネルがある。中は狭くて暗く、轟音をたてて走るトラックの間に挟まれてここを通り抜けるのは命がけだ。走り終えた時は、足がへなへなだったが、もうこれで酒田だ、日本海だと踊り出したい気分だった。
そのトンネルを出て50メートルのところでT村が急にストップした。無事に地獄トンネルを抜けた記念に写真でも撮ろうと言うのか、あるいは、また俳句を書いたのか?(俳句については、前回を参照)。
ところが、T村は悲壮な顔で告白した。「 やばい、ドライブインにバックパックを置き忘れた!」恐れていたことが、やっぱり起きてしまったと言う顔であった。マーフィーの法則で「失敗する余地があるなら、失敗する」と言うのがあるが、まさにその好例だ。
私は、自転車旅行にはバックパックは用いないことにしている。背中に汗をかいて不快だと言う理由もあるが、一番の心配は置き忘れる可能性があるからだ。現に、私は一度置き忘れたことがあって、そのことがトラウマとなって私の心に刻印されている。自転車旅で一番面倒なことの一つは、忘れ物を取りに引き返すことかもしれない。
言うまでもなく、バックパックには、着替え、携帯、財布、工具、その他一切合切が入っている。そんな大事な物を置き忘れるなんてことがあるかと人は尋ねるだろう。しかし、実際ほとんどのサイクリストは、バックパックを置き忘れた経験があるだろう。今回の旅行前も私はT村に、「バックパックはやめた方がいいぜ、置き忘れるから」と言っておいた。にも関わらず、T村はバックパックを背負ってきた。
しかし、私は友達思いの人間である。決して、「ほら、言った通りだろう?俺の言うことを聞かないからこう言うことになるんだぜ」などと勝ち誇ったような顔はしなかった。それどころか、私はいかにも同情したように、「え、そりゃ大変だ、すぐに取りに戻ろう!きっとお店が預かっていてくれるよ」と言った。もちろん、私の偽りのない本心である。
私たちは、すぐに回れ右をし、国道47号線をさっきのドライブインまで猛烈な勢いで戻った。今度は川側を走るので、路肩に寄りすぎると最上川に転落する。私はヒヤヒヤし通しだったが、T村は、そんなことお構いなく、ツール・ド・フランスのタイムトライアルの選手のように矢のように走った。
ドライブインに戻ると、幸いT村のバックパックは置いていったところにそのままあった。T村は冷や汗を拭きながら、アメリカンドックのお姉さんに丁重にお礼を言った。
そういうわけで、T村のおかげで、思いがけず地獄トンネルも3回通過し無事生還できたのは僥倖と言う他ない。困難を乗り越えて、我々はめでたく昼には酒田の町に到達した。

愉悦の酒田ラーメン
酒田に私が来るのは二度目だ。30年前に一度、酒田から北の日本海側を父と二人で旅行した。その時は真冬で、ドンガラ汁と言う鱈鍋と、イカソーメンが美味かったことを記憶している。父との旅は気詰まりで、何を話したかも覚えていない。でも、もう父もいないからその旅に行っておいて良かったと思う。つまらなかった旅でも、何かしらの思い出が、記憶の底に残るものなのかもしれない。
今回は、酒田ではT村とラーメンを食べることになった。今回のサイクリング旅行では、本当は蕎麦を毎日食べる予定だったが、T村は「今日は絶対に酒田ラーメンを食べるんだ」と言って譲らない。仕方がないので譲歩してラーメンを食べることにした。
探し探し訪ねたのは、Mと言う酒田ラーメンの有名店だ。ここのラーメンは、サラサラ醤油味系の汁で、麺は細めでワンタンが入っているワンタン麺であることが特徴という。
店の前には短いが行列ができていた。待っている間にメニューを見ると、東京の三鷹にも支店があることが判明した。三鷹は、東京において私の守備範囲だ。だとすれば、わざわざ酒田でこのラーメンを食べる理由が半減する。「なあんだ、三鷹にも支店があるんだってよ」とT村に言うと、「そうか、でも、俺は三鷹には滅多に行かないよ」と答えた。T村は田園都市線とか京浜急行とかの人だから三鷹は圏外なのだった。
ならば仕方ない、T村の気持ちを尊重しよう。ちょっとがっかりしつつも酒田ラーメンに挑んだが、そのラーメンは、どうしてどうして、とても美味しかったと言わざるを得ない。澄んだスープはあっさり、細い麺はシコシコ、ワンタンは透き通るように薄く、これが伝統的な昔のラーメンだよと叫びたくなる味だった。

土門拳記念館の美人妻
次に私たちが訪れたのは、酒田の町外れにある土門拳記念館だった。土門拳は、酒田が生んだ著名な写真家である。その名は知っていたが、あまりちゃんと写真を見たことはなかった。今回は、同じく有名写真家である木村伊兵衛の作品も一緒に展示されている。木村伊兵衛の写真も、私はちゃんと向き合ったことがない。しかし、実はこの頃、私はアマチュア写真家として「デビュー」し、ミラーレスカメラに広角レンズを付けてパチパチ激写しているから、こんな素晴らしい勉強のチャンスもない。大いに期待して土門拳記念館に入場する。
さて、読者を退屈させたくないので、土門拳も木村伊兵衛の写真はどちらも素晴らしかったとだけ書くに留めておくが、土門も木村も戦後に写真家として頭角を現し、当時の日本各地の様子を活写している。双方とも子どもや庶民の生き様を白黒写真で撮影した。その二人の違いは、土門が周到に調査準備を重ね、アングルも熟考して撮影した一方、木村は現地にポーンと入り、即座にパチパチと撮影することにあったらしい。土門は努力型、木村は天才肌と言うべきか。でも、どちらの写真にも私とT村は興奮した。
T村は、展示だけでなく、土門拳記念館の建物にも感心し、「これは大変優れた建築だ、ふむふむ」とあちこちを探索していた。記念館の外は公園で建物の前は池だ。私はカメラを構えながらゆっくり池を一周した。戻ってきてT村を探すと、驚いたことに、池端でT村は一人の若い人妻に接近しているではないか。

その人妻は、小さな娘と一緒に池の鯉に餌をあげていた。白のブラウスにピンクのパンタロン、大きな麦わら帽子を被ったその美しい女性に、T村はどうやってきっかけを掴んだのか、親しげに話かけている。さながら漱石の『三四郎』の中の有名な場面のようだ。その場面とはもちろん、三四郎が東大の赤門にあった池の端で、マドンナの美禰子(みねこ)に遭遇する場面だ。
T村「いやあ、ここは実に素晴らしい公園ですなあ。あなたは酒田に住んでおられるお人かな?」
女性「はい、でも、主人の仕事の関係で仙台から引っ越してきたんです。引っ越してきたばかりなので、まだ友達も少なくて、ウフフ…」
T村「えっ、友達がいない?それはお寂しいことでしょうなぁ、グフフ、グフフ。仙台は杜の都と言って、美しい街ですねぇ。私もよく仕事で行くんですよぉ、ワハハハ、ワハハ。実は、私たちは東京から来たんですがね、それも自転車でね、フッフッフ。でも今日は庄内空港から飛行機で帰るんですわ、フッフッフ。」
女性「あらぁ、お友達と一緒に自転車旅行なんて、羨ましいですわ!」
T村「いやあ、それほどでも。ワハハ、ワハハ。」
こんな感じのカジュアルな会話であるが、仙台妻と話しているT村の顔がだんだん緩んでいくのが見てとれる。T村は営業マンであるから、誰にでも気兼ねなく話しかけるのだが、やはり男であるから、こういう美人を相手にすると完全に我を忘れてしまうようだ。
T村には可哀想だが、そろそろ庄内空港に向かわないと飛行機に乗り遅れる。私は思わせぶりに「さあ、そろそろ空港にむかいますかね」と言った。T村は名残惜しそうであったが、いずれにせよ、こういう美人と最後に遭遇できたのは、我々の旅が大成功だったということの象徴であろう。
さて、空港まであと10キロだ。

おいしい庄内空港から羽田まで空の輪行
土門拳記念館から空港までの10キロは、ひたすらまっすぐで平らであったが、最後のアプローチだけ2キロほど上りだった。地方の空港は、このような台地に乗っかっていることが多いが、低いところにあるより、高いところにある方が飛行機の離着陸に便利だからだろう。
その最後の上りで、私の自転車のギアがおかしくなって、変速がしづらくなった。しかし、あとは自転車を畳んで袋に入れて、ANAの飛行機で運んでもらうだけだから、慌てて直す必要もない。350キロ走って、この程度の故障しかなかったのも幸いだろう。
3年前に四国へ行った時の帰路は、JALだった。JALとANAはライバルだ。ライバルには、ルパン三世と銭形警部、、亀とウサギ、ロナウドとメッシ、ダイソーとセリア、松屋と吉野家、電通と博報堂などがあるが、ライバルがいるのは良いことだ。競争することで、お互いのレベルが向上するからだ。ライバルがいないと、北朝鮮のキム一家とか、オーストラリアのカンタス航空のようになる。北朝鮮の人々はキム書記長が最高の指導者だと思い、オーストラリア国民はカンタスが世界一の航空会社だと思っているからサービスが悪くても文句を言わない。だから、JALとANAが張り合って、どちらも遜色がないのは良いことだ。ただ私は、JAL派かANA派かと聞かれれば、絶対JAL派である。何故かというと、生まれて初めて乗ったのがJALで、その初体験が素晴らしかったからだ。今もJALへの初恋が続いていると言える。
しかし、今回ANAに乗ってみて、ANAも悪くなかった。まず折りたたんだ自転車の取り扱い方が丁寧だった。JALも丁寧だが、ANAのグランドクルーも念入りで、袋に入った自転車を二人で両側から大事に抱えて、静々と運んでくれた。こういう人たちがいる限り、日本の航空会社はまだまだ大丈夫である。頑張れANA!

最後に、Googleマップに見放されて道に迷ったこと
私とT村は、無事にANA400便に乗り込んだ。定刻出発、定刻到着であった。フライトはスムーズで、ANAのポイントはここでも上がった。
羽田からは、リムジンバスで田園都市線たまプラーザ駅に向かった。T村はここで自転車を組み立てて自宅まで走って帰宅。私はもう二駅電車で行き、武蔵溝ノ口で自転車を組み立てて、川崎市多摩区長尾の友人宅まで帰還する。それで、この旅は完全に終わりだ。
私とT村は、たまプラーザ駅で固い握手を交わし、それぞれ帰路についた。私は、武蔵溝ノ口のガード下で自転車を組み立て、川崎市多摩区長尾の友人宅まで最後の5キロを走り始めた。
ところが、最後の最後で道に迷ってしまった。中国の諺で、「どんな旅も、家に帰って靴を脱ぐまで終わらない」というのをどこかで読んだことがある。私は、この諺の真意を噛みしめ、もっとじっくり地図を読みこんでから帰れば良かったと振り返って思う。ところが、Googleにすっかり毒されてしまった私は、迂闊にも地図も確かめずに、ただ多摩区長尾と思われる方角に向かって自転車を進めた。予定では20分で「長尾橋」交差点に着くはずだった。しかし、その交差点はいつまで経っても現れなかった。そこで初めてGoogleマップを見たら、とんでもない方向に4キロも走ってしまった事実が判明した。そこで、方向を改めてまた走り出した。ところが4キロ走っても長尾橋に行き当たらない。そこでもう一度Googleマップを見た。そこで判明したのは、Googleマップがフリーズしている事実だった。私は真っ暗な道端でパニックを起こした。今思えば、ケータイを再起動させれば良かったのに、そうもしないで、私はただ闇雲に走りまわった。私は、川崎市に関して土地勘はゼロなのだ。これがどこかの極地、例えばコロンビアの山奥やナイジェリアの奥地だったら、私はコヨーテに食べられたり、追い剥ぎに身包みはがれて殺されていたかもしれない。決してGoogleを過信してはいけないと心に誓った。
とにかく、迷いに迷い、汗だくになった私がやっと長尾橋にたどり着いたのは、夜の10時半だった。晩飯も食べてないから、行き倒れ寸前だった。とりあえず長尾橋の吉野家に入り、牛丼大盛りを食べてようやく動揺した気持ちが落ち着いた。その後、友人宅に辿り着いたのはもう11時だった。今朝、羽根沢温泉のツルツル肌女将にお別れしたことや、土門拳記念館の池で仙台妻と出会ったことなど、ずっと遠い過去のことに思えた。
かくして、私とT村の、四泊四日走行距離350キロの最上川を下る自転車旅は終わった。近年稀な、いと面白き旅だったと書いて筆を置こう。
最終日の俳句
ラーメンの 湯気の向こうに 日本海 (鉄沈)
谷口と 土門が息づく 記念館 (T村)
鯉の口 地獄の門に 似てまいか (鉄沈)
A N A 雲の布団を 突き抜けん (鉄沈)
自転車の 家路の先の 闇の濃さ (鉄沈)




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