ベラリン半島まで: 釣りは希望の遊び
- 鉄太 渡辺
- Jan 23, 2022
- 5 min read
2022年1月23日
「釣りに行きませんか?」「行きましょう!」と言うことになって、Mさんと釣りに行った。行先はベラリン半島である。ベラリン半島は、メルボルンから南に百キロ、ポート・フィリップ湾の中に突き出した半島だ。湾内の半島だから波もないし、穏やかな良い釣り場がたくさんある。

Mさんは、私が日本に帰国するといつも定宿がわりにしている調布のマンションの主だが、メルボルンにご家族が住んでいるので、年に1、2度メルボルンに戻ってくる。コロナ禍のせいで2年も家族に会わずにいたのだが、ようやく海外渡航ができるようになったので、苦労の末、年末にこっちに戻ってきた。
Mさんも私も、二人ともへたっぴいな釣り人だ。へたっぴいな釣り人というのは、釣り好きな癖に、年に2、3回しか行かない人である。どうしてもっと行かないのかと言うと、仕事や家族の都合や住んでいる場所のせいで、なかなか行けないからだ。しかし、心底釣りが好きな人は、仕事が忙しくても、家族が反対しても、山奥に住んでいても、どんな苦労をしてでもしょっちゅう釣りに出かけるものだ。私は、釣りが好きなために海の近くの不便な場所に住んでいる人も知っているし、オーストラリアで思う存分釣りをしたいから、日本の家を売り払って移住した人なども知っている。そう言う人は、まるで神様のように釣りが上手だ。
(何を隠そう、私の息子も釣りの達人で、こういう美味しい魚をたくさん釣ってくる。これはマアジとシマアジ)

それから、へたっぴいな釣り人は、常に頭の中で釣りをしている人である。ああ言う場所で釣ってみたい、ああ言う仕掛けで釣ってみよう、今度の休みは思い切ってクイーンズランに行って釣ってみようか、などと考えている。また、釣りの本を読んだり、釣具屋で使いもしない仕掛けをたくさん買い込んだり、YouTubeでマグロ釣りの番組を何時間も観たりする。それでいて、何のかんの言ってなかなか釣りに出かけない。そう言う人は、釣りが上手くならない。釣りは、やっぱり経験を積まないとだめ。
Mさんも私も、ほとんどの時間、頭で釣りをしている釣り人だ。あえて言うなら、私はMさんよりはいくらかマシで、時には遠くまで行って、シマアジを入れ食いで釣ったり、大きなキスやコチをボカーンと釣り上げたりすることがある。しかし、Mさんには、普段日本にいるし、あまりチャンスがない。私は、もうMさんと10年近く釣りに行っているが、彼が大物を釣り上げたことは数えるほどだ。しかし、それでもMさんは諦めない。私も、そんなM さんに付き合って釣りに行く。そして、それはそれで、とても楽しい。

釣りの前の晩、私は釣り道具を車に積み込み、釣りライセンス(ビクトリア州の釣りライセンスは年間35ドル)が切れてないかチェックしてから、早めに寝る。気持ちは高揚するが、いくらか面倒な気分でもある。翌朝、私としては早起きの六時に起床し、Mさんの家までドライブ。途中で買って飲むコーヒーが美味い。Mさんの家についても、Mさんは、まだ朝ごはんを食べたりトイレに行ったりで、なかなか出発できない。八時過ぎにやっと出発。ベラリン半島までは1時間40分。釣り場のある田舎町に着くが、釣り餌を持ってこなかったことに気が付く。そこで、釣具屋へ行き(釣具屋はどんな田舎にも大概はある)、一キロ千円もするイカや蛤などの高級な餌を買う。餌が良くなくては魚は釣れないからね。これが基本。
朝10時。凄腕の釣り人ならとっくに家に帰る時間だが、私たちはようやく釣り場に着く。ピカーンと夏晴れ、雲ひとつない。二人はソワソワと釣具一式を担いで、桟橋へ移動。周りには地元の釣り人がたくさんいる。見れば、腕組みをして立ちすくんでいる人がほとんどで、魚を釣り上げている人はいない。

「いやあ、こんな晴れていると、きっと釣れないでしょうね…時間ももう遅いし」と我々は少し気弱になる。それでも希望を抱いて、桟橋に陣地を定めて釣り始める。
私の釣り方は、いつも決まっていて同じ仕掛けで釣っている。馬鹿の一つ覚え。利点は、すぐに餌をつけて釣り始められること。ところが、Mさんは、あれこれ道具箱をガシャガシャかき回している。イライラしてくるくらいゆっくりとしている。「えーと、今日はこれで釣ってみようかな?」とか言いながら、日本の上州屋の特価セールで買ってきたウキを釣り糸に結えつけたりしている。老眼だからさらに遅くて準備に30分くらいかかる。

やっと釣り始める。案の定、魚が食い付かない、当たりも全然ない。桟橋はダメなので、突端の岩場に移動。見れば、達人のような釣り人が一人、バンバン釣り上げている。偵察に行くと、何か赤いオキアミのような撒き餌をバシバシ撒いて、集まってきた魚を釣り上げているのだ。そうだ、今日は撒き餌を持ってくるのを忘れた。何たる失態だ。
「Mさん、やっぱり撒き餌がないと釣れないですよね」私は言う。
「おお、そう思って、日本から良さそうな撒き餌を買ってきたんだよ!」
「ええ?それならそうと、早く言ってくださいよ。その撒き餌、撒きましょう!」
「ごめん、家に置いてきた」
つまり私たちは、そんな釣り人なのである。
で、結局今回のベラリン半島の釣行も全くの「坊主」であった。
昼まで頑張ったが、暑くなってきたので、お弁当を食べて帰ってきた。
それでも私たちは諦めない。次こそ、きっと釣れるとMさんも私も信じている。釣りとは、希望の遊びである。釣りの喜びさえ知っていれば、生きることが辛くなっても、「そうだ、釣りに行こう、今度こそ釣れるかもしれない」と思える。
核戦争で人類が滅亡する様子を描いたオーストラリア文学の名作『渚にて』(ネビル・シュート、創元SF文庫)にも、登場人物が死ぬ前に故郷で釣りをする場面が出てくる。どんな時でも、釣りはいっときの心の平安を与えてくれるのだ。
太公望だった作家の開高健も書いている。(『開高健名言辞典』滝田誠一郎選、小学館)
一時間幸せになりたかったら酒を飲みなさい。
三日間幸せになりたかったら結婚しなさい。
八日間幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。
永遠に幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。




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